試し読みを是非…!

新刊『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』を知っていただける機会を広げたく、<はじめに>と<目次>と問いへの回答を一つアップしてみました。
(問い:「どうして男の人は子どもを産めないんですか?」)

興味持ってもらえたら、是非本書を読んでいただければ嬉しいです!

また各章の扉には、丹野杏香さんに素敵なイラストを描いていただいています。こちらも本書でご覧いただけたら幸いです~。

2月18日の東京新聞朝刊に新刊の紹介記事

2月18日の東京新聞朝刊に、新刊『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』について、栗原淳記者が紹介記事を書いてくださいました。栗原さんの許可をいただいたのでアップさせてもらいました。《問いを見つけ、自ら考えることの大切さ》という本書のテーマを温かい言葉でご紹介下さいました。栗原さん、ありがとうございました。

記事も本も、ぜひ読んでいただけたら嬉しいです~。

読売夕刊「ひらづみ!」23年2月6日に、山本文緒さんの『無人島のふたり』を

読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」に、山本文緒さんの『無人島のふたり』について書きました。

山本さんが2021年10月にがんで亡くなられる前の最期の日々につづった日記で、本当に心揺さぶられる一冊でした。この書評も、いつも以上に自分の感情が露わになる内容になりました。未読の方、この記事を読んで興味を持ってくださったら是非読んでみてください。

『自転しながら公転する』も面白かったです。自分の中にある隠しておきたい部分を明らかにされるような、それゆえに、ああ、そうなんだよなあと思い、切なくなるような面白さでした。

新刊『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』(岩波ジュニアスタートブックス)が2023年2月に発売になります。

久々の新刊が来月発売します。

『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』
(岩波ジュニアスタートブックス)

です。

岩波書店が2021年に創刊した、中学生を対象としたシリーズの一冊です。

2018年から「月刊すこーれ」という雑誌で、子どもの素朴な疑問に答えるというような連載をやっていて、それを書籍化した形です。「科学」「社会」「心」の3分野に分けて、計45の問い&自分なりの回答と、書き下ろしのエッセイが3つほど載っています。

とても平易な言葉で書いた本ですが、いま自分が若い世代に伝えたいことを、問いに乗せて、心を込めて綴りました。一番伝えたいことは、問いの答えや知識ではなく、問いを持ち、自ら考えることの大切さです。

中学生、10代はもちろん、大人の方にも、ちょっと何かを考えるきっかけになればと…、よろしければ読んでいただければ嬉しいです。

どうぞよろしくお願いいたします。

2023年の年始に

2022年がまだしっくりなじまないうちに、2023年になってしまいました。

昨年はいろいろと思うようにいかない一年でした。生活面で難題が発生し、仕事もいまいちで精神面も浮き沈みが多くてしんどい時期が続きました。振り返ると、コロナ禍に結構影響受けていたようにも感じるし、日々ウクライナの戦争のことなど、穏やかでない出来事を追っていく中で、気持ちが沈んでいったということもあるのだろうと思います。

人生は短い、残りの時間でできることも限られている、とこれまでになく痛感したのも昨年でした。特にいろいろしんどかった前半を終えてからは、自分がやりたいことに人生の時間を使おう、という気持ちがとても強くなりました。

仕事もできるだけそのようにシフトし、昨年の後半は、書きたい本を書きたいという気持ちに素直に、新しい本を執筆する時間を増やしました。来年は3冊出す予定で、その1冊目が2月に出ます(岩波書店の"岩波ジュニアスタートブックス"シリーズより『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』)。

また、ギターを練習することも、いま自分にとって大事な時間になっています。確か2021年の年始には、ギターを始めました的な投稿をしたように記憶していますが、2年が経ったいまも、全く飽きずに楽しく続けることができています。

ギターを練習するほどに、これまで以上に音楽を聴くのが楽しくなり、音楽の理論的なこともそれなりに学ぶようになり、本当に世界が広がりました。コロナ禍を経て自分にとって最もよかったことの一つはギターとの出会いだと言えるかもしれません。

って、これを機に、思い切ってこちらに弾き語りの動画を一つ…。ビートルズのBlackbirdで、2週間ほど前に撮ってみたものです。

日々ひとり黙々とやってるだけなので、聞いてもらえると嬉しいです(1分40秒ほどです)。44歳からのスタートは遅かったなと思いますが、いまさらも遅すぎるもない、と自分に言い聞かせ、これからも続けていきたいです。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。



「村林由貴が描く禅の世界」がついにスタート!

絵師・村林由貴さんが11年かけて描いた渾身の襖絵の一般公開が、12月24日からからついに始まりました。

特別公開詳細はこちら 

2011年から今年まで、24歳から35歳という時期を、村林さんは、まさにこの襖絵を描くためだけに生きてきたと言っても過言ではない日々を送ってきました。

寺に住み込み、絵の技術を磨き、禅の修行を繰り返し、悩みながら、一歩一歩描き進める日々。行き詰まって描けなくなり、寺も離れた時期もあり、しかし、その時期も乗り越え、モチーフを固め、膨大な量の絵を描き続けた末に、仕上げていった退蔵院方丈の5部屋76面の襖絵。

約6年の間、修行や訓練を重ねて描くべきものが決まり、そこからさらに2年ほどかけて本番に向けて技術を高め、そして本番を描き始めてから完成までが3年。

それだけの間、禅に身を投じて、深く自分と向き合った結果、何百年もの間描きつがれてきた対象へと行き着いたところに、大きなすごみ、そして村林さんの過ごした日々の重さを感じます。

プロジェクト開始当時からこの11年間、ぼくは取材者の立場で、村林さんの姿を近くで見させてもらってきました。ぼく自身、彼女の創作の姿勢にはとても影響を受けていて、また、途中の彼女の苦労も肌で感じてきたため、本当にこの絵の完成には感無量でした。

一般公開が始まってからいろんな方がこの絵を見る様子もここ何日かで見させてもらってきましたが、多くの人が絵に、彼女の姿勢に、感嘆する姿にぼく自身も感激しています。

本当に、彼女が人生をかけて描いた大作です。

引き続き是非多くの人に見てもらいたいです。

村林さんについて、このプロジェクトについて、ぼくが過去に書いた記事の一部がこのウェブサイトにpdfでアップされています。すでに絵を見られた方、これから見ようという方、併せてこちらの記事を読んでいただくとより楽しめると思います。

『新潮45』2012年10月号
<よみがえる「お抱え絵師」 京都・妙心寺「退蔵院方丈襖絵プロジェクト」>
プロジェクトが始まった当初の村林さんの姿を描いたものです。

『芸術新潮』2013年5月号
<妙心寺退蔵院の襖絵プロジェクトを支える職人たち>
プロジェクトのもう一つのカギを握る、職人さんたちの仕事についてです。

『文藝春秋』2020年6月号
「令和の開拓者たち」絵師・村林 由貴
京都・妙心寺退蔵院の襖絵を描く“現代の御用絵師”村林由貴の「新しい水墨画」

退蔵院の襖絵を描き出して、いよいよプロジェクト終盤に向かう村林さんの姿を描いたもの。リンク先は、文藝春秋digitalのサイトで記事全体の前半部分が読めます。彼女の苦悩の部分は後半にあり、そちらが話の中心だったのでそこを読んでもらいたいですが…。pdfがアップできるようになれば、後日そうします。




読売夕刊「ひらづみ!」22年11月21日掲載 『ルポ 誰が国語力を殺すのか』

石井光太さん『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋) 。自分は学校の頃ひたすら国語が苦手で投げ出してたので「国語力の大切さ」と言われても最初はピンと来ませんでしたが、本書を読後、全く意識が変わりました。これは必読です。特に教育関係の人はぜひ。

サッカーについて聞いて、東ティモールを思い出し…。『遊牧夫婦』「18 ジョンたちの決勝戦」

開催中のワールドカップに関連して、TBSラジオ「アシタノカレッジ」にて武田砂鉄さんが、サッカーと政治や人権との切り離せない関係や、サッカーが国によってはいかに国民にとって大切な存在であるか、と言ったことを話していたのを聞いて、かつて東ティモールで経験したことを思い出しました。

20年以上のインドネシア占領の苦しい時代を残り超えて独立したのが2002年のこと。それから2年の国連軍による支援期間を終え、まさにこれから国として自立しなければならないという時期だった2004年5月11日、サッカーの全国大会「プレジデントカップ」の決勝戦が行われました。独立二周年の記念日を4日後に控えてのこと。

決勝戦の一方のチームの監督ジョンが、ぼくらが泊っていた宿に出入りしたことから知り合いになり、その縁で試合を観戦に行くことになったのですが、それは本当に、ずっと心に残る時間になりました。不透明な未来を前にそれぞれが複雑な気持ちを抱えつつも、スタジアムの内外には多くの人が集まり、熱狂する。そしてジョンが経てきた人生とサッカーへの情熱、それを影で支える宿のオーナー、オーストラリア人のヘンリー。さまざまなシーンやエピソードがいまも胸に迫ってきます。

そんなことを、10年以上前に出版した『遊牧夫婦』の中に書きました。自分自身、この本の中で一番好きな部分の一つでもあり、ふと思いたち、以下にその章「18 ジョンたちの決勝戦」(文庫版)を、写真とともにアップしました。中途半端なところからになりますが、よかったら読んでいただけたら嬉しいです。本に載せていない写真を複数掲載したので、すでに読んでくださってる人もぜひ。

ちなみに、ヨハンは、同じ宿に滞在していて親しくなった同年代のスウェーデン人。彼は東ティモールの政治について修士論文の執筆をしていて、ぼくは初めて依頼を受けての雑誌記事執筆中(東ティモールの独立2周年の様子について)。そしてエモンは宿で働いていたティモール人です。

以下、本文です。2022年10月時点での東ティモール代表のFIFAランキングは198位。ジョンの夢はまだ実現してないけれど、いまも彼の熱量が、そのまま心に刻まれています。


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18 ジョンたちの決勝戦 

ヨハンとともに三人で浮かれた日々を送りつつも、記事を書くための取材は少しずつ進めていった。ただ、企画が通ったあとで取材・執筆するというのはじつは初めてだったため、うまくできるだろうかという不安が少なからずあって、ぼくは何気に気が気ではなかった。

その点、ヨハンが身近にいたことで助けられた。彼はぼくらよりたしか一カ月ほど前から東ティモールに滞在していて、すでに研究のためのインタビューを重ねていたので、ぼくにとって大きな道しるべとなってくれた。

しかもヨハンの強気な取材方法は、物怖じしやすい自分を後押ししてくれた。驚かされたのは、彼がある政党の代表者だかをインタビューしようと、その人物に電話でアポを取っていたときのこと。キッチンで彼が携帯から電話するのを聞いていると、どうもインタビューに応じてもらえなそうな様子だった。するとヨハンはこんな感じでまくし立てるのだ。

「なんで、取材に応じてくれないんですか? ああ、そうですか、応じてくれないのなら、フレテリン(与党)の○×からのインタビューだけで、論文を書き上げてしまいますからね。それでもいいんですか? スウェーデンに偏った東ティモール事情が伝わることになりますよ」

驚くほど強気なのだ。もちろん彼が、影響力の大きな新聞やテレビの記者であるなら、言わんとしていることはわかるのだが、なにしろこれは一修士論文なのである。電話の相手になんと言われたのかは不明だけれど、「勝手にしてくれよ」と、あしらわれてもおかしくはない。

ひとりの大学院生としてヨハンがそう言っているのを聞いて、ぼくはただただ感心した。大メディアの人間がそんなことを言ったら、たちの悪い脅しのようにも聞こえてしまうが、修士論文のためのその主張は、ヨハンが、肩書きで相手を説得しているのではなく、自らの研究に誇りを持って取り組んでいることを表しているようにぼくには思えた。なるほど、そのくらい気持ちを込めて取材をするべきなのだろうと、すっかり鼓舞されたのだった。

実際に取材を始めると、思ったよりも人には会いやすかった。偶然出会った人やツテがある人に話を聞いていくというところから始めたが、その方法でかなりさまざまな立場の人と話すことができていった。

まずは、ヘンリーやヨハン、エモンとその友人たちといった身近な人からざっくりと状況を聞く。と同時に少しずつ範囲を広げ、日本料理店の主人とその店でたまたま出会った自衛隊員、ダイブショップを経営するイギリス人夫婦などにそれぞれの印象を聞いていった。ヨハンが築き上げていた人脈にも助けられた。

さらに、ふらりと大学に行けば、学生から話を聞けるし、その流れで大学の先生にも何人かインタビューできた。そのうちにだんだんと要領がつかめてきて、他に、JICAの駐在員、文部科学省から派遣された日本の役人、NGO職員、ジャーナリスト、現地の弁護士、ニューハーフらしい美容師さん、レストランの店員さんに服屋さん、路上で休む労働者、インドネシアのビジネスマン、といった具合に、話す相手をどんどん広げることができていった。

彼らから聞いた話に加え、日々ディリの町を歩き、郊外をバイクで走ることで、自分なりの東ティモール像が、ぼんやりとだができあがっていった。

話を聞くと、言うことはみなそれぞれに異なった。

たとえば、「楽観的にはなれないな」と渋い顔を見せるのは、ダイブショップを営むイギリス人夫婦の夫ウェインだ。

「この国の人間は、自分たちが何をすればいいかをわかっていない。自立する準備ができているとは思えないよ。おれは自分のビジネスが心配だ。おれの全財産は東ティモールにある。この国が終わればおれも終わりなんだよ」

と、不安そうなことを言うものの、ゴツい体を揺らしながら、ガハガハガハッと笑っている。彼はもともと戦場を駆け回っていたジャーナリストだっただけあって、そう言いながらも、いまの状況を楽しんでいるようだった。

「いつ何が起こっても不思議じゃないってのは、でも、魅力的なんだよな。おれはそういう場所で人生を送りたいって思ってるんだ」

まんざらでもない、というわけだ。

その一方、ウェインの妻アンは、全く逆の見通しを持っていた。彼女もテレビのジャーナリストとして二十年近いキャリアを持ち、当時は、「東ティモール観光協会」だったかの副代表も務めていた人物だ。

「独立からの二年間で、この国は急速に経済を再建させたわ。もちろん、まだまだたくさん問題はあるし、完璧ではないけれど、未来は明るいと私は思っているの。ここの海は間違いなく世界屈指の美しさだし、観光業がきっと発展するはずよ。ティモール人はとても強いし、なによりも、すべてが新しいというのは素晴らしいことよ」

Dollar Beach。ビーチにはほとんど誰もいなく、海の中では、ジュゴン、クジラ、イルカ、ウミガメなどの姿も。

完璧である必要はない。あるものでできることをやればいい。それでなんとかなるはずだ。アンはこの国とティモール人の強さを信じていた。

夫婦で全く逆の印象を持つこの二人に代表されるように、意見は悲観派と楽観派に真っ二つに分かれた。先行きを心配する人は、東ティモールが自立するのはまだ早い、産業だって何もないじゃないか、と口を揃える。しかし、明るい未来を想像する人は、二年でここまで来たんじゃないか、この国はこれからなんだ、と前を向いた。

ぼくは、話を聞くごとに、この国の抱える問題の深さに「うーん、そうなのか……」と唸ったり、いや、「すごい可能性が広がっているのかもしれない」と明るい気持ちになったりを繰り返していた。

そうして毎日のように気持ちが揺れ動く日々でのこと。ぼくは、この国の印象を一気に明るくするひとりの陽気なティモール人と知り合った。取材で出会ったわけではない。もともと、何者かは不明だけどちょくちょく宿に現れてまるで自分のうち同然にシャワーを浴びている男がいる、あれはいったい誰だろう――出会いはそんなところだった。

シャワーを浴びたり何かを食べたり、楽しげな用事を済ませると、さっぱりした顔で宿を歩き回り、ヘンリーと談笑する。そしてぼくらに気づくとにこやかに話しかけてくる。

「ハロー、ハロー! アイ・アム・ジョン!」

彼はとにかく陽気で、早口に英語を話す。黒い肌と天然パーマの効いた短い髪、はっきりとした顔立ちが微妙にカール・ルイスを思わせる。歯茎を出して豪快に笑う一方、やたらと低姿勢で握手を求めてくる様子は、一見ただのお調子者、またはやりすぎな営業マンの見本のようで、若干うさん臭げでさえあった。

いったい彼は何者なんだろう。そう思っていると、驚くべきことが判明した。なんでも彼は、サッカー東ティモール代表の監督候補だというのだ。にわかには信じられない気もしたが、詳しく聞くうちに、たしかにそうらしいことがわかってきた。

東ティモールにとってサッカーは、ひとつの〝希望〟と言えるものだった。

ちょっとした空き地があればどこでも、子どもたちがボールを蹴る姿がある。貧しくて苦しい生活も、ボールを追っているときだけは忘れられる。きっとこの国の人たちにとって、サッカーはそういう存在であるにちがいなかった。以前、若者たちの絵画コンテストが行われたとき、苦しい時代を乗り越えてきた多くの若者がそこに書く言葉として選んだのが「サッカーこそが人生だ」という文句だったとも聞いた。とすれば、ジョンはすなわち、この国のもっとも大きな希望を率いている男であるともいえるのだった。

ジョンは東ティモール第二の都市バウカウに生まれた。本名はモハマド・ニコ。いつ生まれたのかは彼自身も知らない。たぶん三十六歳ぐらいかな、とジョンは言う。ただ、インドネシア人に父親を殺されたのが一九七五年のことであり、その後、東ティモールを去ってインドネシアへ渡ったのが七九年だということははっきりしている。インドネシア占領時代のことである。

東ティモールよりは生きやすかったはずのインドネシアで選手としてサッカーをしたのち、指導者を志すようになった。この時代に彼は、サッカーのコーチングを学ぶとともに、英語も学んだ。また、結婚して子どもも授かった。

しかし二〇〇一年、インドネシアからの独立を決めて復興の真っ只中にあった東ティモールに戻ることを決意する。妻の親に「東ティモールには仕事はない。行くな」と反対されたが、ジョンは頷きはしなかった。国として独立を果たした故郷に、彼はどうしても帰りたかった。

そうして、暗黒の時代を終え希望に満ちた新しい時代を迎えようとしていた東ティモールに帰ってくると、ジョンはこの国のサッカーを育てたいという思いを強めた。それが彼にとって、新しい国づくりへの参加の仕方だったにちがいない。しかし東ティモールはまだ、サッカーのコーチでお金をもらうことを期待できるような状況にはなかった。

そこでジョンは、サッカー指導とともにインドネシアで学んだマッサージの技術によって、生計を立てる道を探った。「ジョン・スミス」という名のマッサージ師として、国連職員など、外国人の身体をほぐしていった。彼の客には、この国を独立に導いた英雄、グスマォン大統領もいたという。

そのジョンに、ぼくたちも一度マッサージをお願いしたが、ツボを押されたときにぼくは痛みで悲鳴を上げることになった。また、サナナ(=グスマォン大統領)は金を払ったことがないと、ジョンは軽くこぼしていた――というのは余談だが、とにかくジョンは、マッサージで生計を立てつつ、無給でサッカーのコーチを始めたのだった。

彼はメキメキとチームを強く育て上げた。そして自らのチームを、最近二回の国内大会の両方で優勝に導くという快挙を成し遂げたのだった。ジョンはまさに、東ティモールのサッカーをリードする存在になっていた。

自分、ジョン、ヨハン

幸運なことにぼくらは、そのジョンにとってとても大切な時期に彼と出会えたようだった。ジョンは興奮しながらこう言うのだ。

「五月十一日にはもうひとつの全国大会プレジデントカップの決勝戦を戦うことになっています。その試合に勝てば、ぼくが東ティモール代表チームの監督になることがほぼ決まるんです!」

つまり、三日後の試合に勝ち、プレジデントカップの優勝をつかめば、この年の十二月、東ティモールが臨む二度目の国際大会である東南アジアのタイガーカップにおいて、ジョンが代表チームを指揮することが確実になるというのだ。

「決勝戦をぜひ見に来てください! 絶対勝ちますから!」

宿のキッチンのテーブルで、彼はピンクの歯茎を輝かせながらそう言って大きく笑った。そしてジョンは、ぼくとモトコとヨハン、三人分の決勝戦のチケットを手配してくれたのだった。

独立二周年記念を九日後に控えた五月十一日の午後、ぼくらは三人でディリ市内にあるスタジアムに行った。スタジアムといっても空き地を低い壁で囲んだだけといった外観で、観客席も両サイドに少々あるだけのかなり簡素なつくりだった。

人がぱらぱらと集まり出したころ、ぼくらもスタジアムに入場し、階段状になった観客席の上の方に席をとった。フィールドを見渡すと、その向こうには、緩やかなカーブを描く緑の山が青空の中にくっきりと浮かび上がっている。

試合開始が近づくと客席はぎっしりと埋め尽くされた。客席だけではなく、フィールドが見渡せるあらゆる柱や建物の上も人の姿でいっぱいになり、いつしかサイドラインとエンドラインに沿ってぐるりと、分厚い人の壁ができていた。

プレジデントカップという名の通り、客席の中央にはグスマォン大統領の姿も見える。初めて見る国家元首の姿にぼくは、「おおー、本物だ!」と気持ちが高ぶった。大統領は写真で見た通りのワイルドなイケメン。しかも笑顔が優しげな彼は、女性にモテるだろうことは言うに及ばず、新しい国のリーダーとして十分なカリスマ性があることを直感的に感じさせた。

中央がグスマォン大統領

その大統領にマッサージ代を踏み倒されたとぼやくジョンが率いるのは、彼の故郷、バウカウ市のチームである。バウカウはディリより一二〇キロほど東にあるが、この日バウカウからは二五台のトラックが応援客を乗せてやってきていたという。

ジョンはそれだけの期待を背負ってこの試合に臨んでいた。そして、彼自身の将来を切り開くために、この国の人々に希望を与えるために、ジョンは自らのすべてを注ぎ込んだ選手たちをフィールドに送り込んだのである。

スタジアムは沸きに沸いた。試合のレベルは決して高いものではなかったが、一つひとつのプレーに、大きな歓声が上がり続ける。穴だらけの芝の上で、ボールは鈍い音を発しながら、ときに予測不能なバウンドをする。選手交代のとき、退出する選手が交代する選手にすね当てを渡す姿もあった。

あらゆるコンディションがよくないことは、この一試合を見ているだけでもよくわかった。しかし、選手にとっても観客にとっても、そんなことは全く関係ないようだった。選手は必死にボールを追い、観客は必死に選手たちを追った。客席では、くたびれたTシャツを着た子どもたちが懸命に観客に物を売って歩いていたが、その子たちも頻繁に足を休めて、試合を食い入るように見つめていた。

グラウンドの芝ははげ、ボールは不規則にバウンド。球状の内外いたるところに観客がいる。

得点板の中にも観客が

誰もがこの瞬間に情熱を注ぎ、楽しもうとしていた。この試合こそが、この国の人々がもっとも熱くなれるものであるにちがいなかった。

ジョンはこんなことも言っていた。

視察に訪れたFIFA(国際サッカー連盟)のある人物が、町の至るところでサッカーをする東ティモールの子どもたちを見ながら、「ここはブラジルみたいだ」と言ったという。八〇万人近い人口(当時)の半分以上が十五歳以下ともいわれる驚異的な若さを考えれば、この国の可能性はたしかに底知れないのかもしれなかった。

「十年、十五年後を見ていてください。そのときには日本とも対等な試合ができる国にしてみせますよ!」

ジョンは母国の可能性を信じて指導を続けてきた。そのために多くを捧げてきた。

国連の任務終了時期が近づいていたこのころ、国連関係者ら外国人が徐々に減るとともにマッサージの仕事も減り、ジョンの生活はますます厳しくなっていたが、それでも彼は、練習時に飲む水などを自分でなんとか搔き集めた金で買っていた。そんなジョンに、必要な金の一部を手渡しているのが、宿のヘンリーであることをぼくは後から知った。

Dili Guesthouseのオーナー、ヘンリー。オーストラリア出身。

午後五時半すぎ、試合も終わりに近づいたころ、スタジアムはさらに大きな歓声に包まれた。それは、ジョンたちの勝利を決定づけるシュートが決まった瞬間だった。

ヨハンもモトコもぼくも、思わず手を上げて

「うおーっ!」

と叫んだ。そして、サイドライン際にいるジョンを見た。黄色のシャツと赤のネクタイで鮮やかにキメていた彼は、喜びを大きくは表さず、あくまでも試合に集中していた。だが、彼の右手は、たしかに目頭を押さえていた。

笛が鳴った。ジョンが勝った。

その瞬間を見届けたほとんどの人が、駆けるようにしてフィールドに下りてくる。夕日の中で色を変えつつあった緑のフィールドは、さまざまな色の服を着た観客によって豊かに彩られ、選手と観客の間には垣根もなく、みなが一体になってジョンたちの勝利を祝っていた。

ぼくたちもフィールドに下りた。

「おめでとう!」

声をかけると、ジョンは、優勝カップを持った選手たちとともに満面の笑みでこっちを見た。そしてぼくがカメラを向けると、

「よし、みんな一緒に写ろう!」

と、選手を集め、さらに大きな笑顔を見せてくれた。選手の顔を見ると、みな純朴そうでさわやかな若者たちだった。そんな大勢の「弟」たちに囲まれた彼は、その瞬間、誰よりも幸せそうに見えた。

スタジアムには高い外壁はなく、外に立つ何本もの大きなヤシの木と、そのさらに後ろにそびえる山までが見渡せる。その景色と大勢の人間のすべてが、淡いオレンジ色の夕焼けの中に溶け込んだ表彰式の風景は、ぼくにとって、東ティモールの日々の中でももっとも忘れられないもののひとつとなった。

ぼくはこの日、この国の明るく前向きなエネルギーを、たしかに垣間見ることができたような気がした。

<『遊牧夫婦 はじまりの日々』(角川文庫)、p229-242に写真を追加>

村林由貴さんの襖絵が年末年始(22年12月24日~23年1月9日)に一般公開になります。

京都・妙心寺の退蔵院で絵師となった村林由貴さんの襖絵が、11年という期間を経て、5月に完成しました。

彼女については、ぼく自身プロジェクト開始当時から取材をしてきて、複数の雑誌に経過を書かせてもらいつつ、ずっとそばで見させてもらってきました。

寺に住み込み、一から水墨画を学びながら、厳しい禅の修行にも身を投じ、ただ、襖絵を完成させることだけに全てをかけた11年。

彼女は本当にストイックで、一時は修行僧のように張り詰め、心身ともに限界となり、寺からも絵からも離れなければならない時期もありました。しかし、そうした困難も自らの糧にしながら、水墨や禅を自らのものにして、村林さんは76面の襖絵を描き上げました。

退蔵院の門を叩いたのは24歳の時で、絵が完成したとき彼女は35歳になっていました。僕が村林さんの取材を始めたとき、現在の彼女よりも若かったことに、11年という時間のすごみを感じます。

立ち上がった絵を見たとき、僕自身も、言葉にならない気持ちになりました。その一筆一筆に込められた魂と熱量に、心を揺さぶられました。

その絵が、年末年始に一般公開になります。是非是非この機会に、多くの人に見ていただきたいです。

これだけの時間をかけて一つの作品を生み出すというのはどういう気持ちなんだろう。何度も彼女に直接聞いているものの、やはり彼女自身にしかわからないことのように思います。

自分にわかること、言葉にできることは限られているけれど、でも、自分なりの感動や思い入れ、村林さんに対する尊敬の念を、なんとか僕も一冊の本として世に問うべく、いま苦闘しています。

プロジェクトの概要については、2年前、「文藝春秋」2020年6月号に書いた拙稿をごらんいただければ。(途中まで下のリンクから読めます)

https://bungeishunju.com/n/n0f7362aa2e7c

村林さんが、文字通り人生を削って描き上げた魂の襖絵を、多くの方に見ていただけますように!

読売夕刊「ひらづみ!」22年9月5日掲載 『基礎からわかる 論文の書き方』

講談社現代新書の話題の書『基礎からわかる 論文の書き方』(小熊英二著)についての書評です。「論文の書き方」という、一部の人にしか関係なさそうなタイトルながら、広く読まれているのはなぜか。読んで納得しました。学問とは何か、科学的に考えるとはどういうことか、といったことを考えさせてくれる一冊です。論文を書かない方も是非。

読売夕刊「ひらづみ!」22年8月1日掲載 『砂まみれの名将 野村克也の1140日』

だいぶ間が空いてしまいましたが、8月に掲載になった読売夕刊「ひらづみ!」欄の記事です。加藤弘士さんの『砂まみれの名将 野村克也の1140日』。野村監督が社会人チーム・シダックスを率いた日々を描いた異色の野村本。同じくこの欄に4月に書評を書いた『嫌われた監督』と併せて読むのも楽しいです。どちらも是非。

かつて書いた、スバンテ・ペーボ氏の『ネアンデルタール人は私たちと交配した』の書評です。

ノーベル生理学・医学賞の受賞者が発表され、スバンテ・ペーボ氏という名前と、ネアンデルタール人の遺伝子配列を解読、ということに聞き覚えがあるなあと思っていたら、初めて新聞書評を書いたのが、氏の『ネアンデルタール人は私たちと交配した』だったことと思い出した(共同通信配信)。2015年のこと。難解な部分もあったけど情熱が伝わる一冊だった記憶があります。本を読み終えるのも、書評を書き終えるのにもだいぶ時間がかかった記憶も。写真は岩手日報、2015年8月9日。

共同通信配信の書評記事『寄生生物の果てしなき進化』

少し前になってしまいますが、共同通信配信の記事として、『寄生生物の果てしなき進化』(トゥオマス・アイヴェロ著、セルボ貴子訳、草思社)の書評を書きました。各種細菌やウィルスなど、さまざまな「寄生生物」が進化してきた壮大で驚くべき歴史が見えてくる一冊です。コロナ禍を経たいま、誰にとっても身近な内容なのではないかと思います。興味を持ってもらえたら是非本を手に取ってみてください。共同通信配信の記事なので、多数の地方紙に掲載されました。写真は河北新報掲載の記事です。

読売新聞夕刊「ひらづみ!」『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(川内有緒著)

読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム、担当7回目(5月30日)は、川内有緒さんの『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』を紹介しました。タイトル通りの内容ながら、いい意味で思わぬ方向に話が展開する、自由さあふれるノンフィクションでした。ほんとにいろんなことを考えさせてくれる一冊です。大宅賞候補にも。

ロームシアター京都のウェブサイトにコラム執筆

ロームシアター京都のウェブサイトにコラムを書きました。
ロームシアター京都は2022年度、「旅」をテーマに自主事業ラインアップを決定。
そのラインアップテーマ「旅」への応答、ということで寄稿しました。

2022年度自主事業ラインアップテーマへの応答
終わりがあるからこそ、と思えるように


旅も人生も、終わりがあるからいい、と思い続けてきました。終わりがあるから感動があるし、今日を充実させようと思うのだと。それが5年間の旅を終えての実感でした。しかし最近そう思えない自分がいます。そんな気持ちを、いまの状況含め、率直に書きました。そしてなぜ旅が必要なのかを。

読売新聞書評欄「ひらづみ!」『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』(鈴木忠平著、文藝春秋)

少し時間が経ってしまいましたが、読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム、担当6回目(4月4日掲載)は、鈴木忠平さんの大ベストセラー『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』を紹介しました。圧巻でした。特に著者自身の迷いや葛藤、心の動きに惹かれました。おすすめです。

心療内科に

最近、気持ちが不安定な状況が続いていた中、一昨日、心療内科に行った。1年半ほど前も行こうと思ったことがあり、その時は、クリニックの中にまでは行ったものの、初診は要予約で、いきなりは受診できないことがわかり、予約をして改めてこようかと思いつつも、そのうちに気持ちが収まっていった。しかしここ1、2カ月はこれまでになくしんどくて、これはと思い、予約をした。そして数週間待って、ようやく精神科医の先生に話を聞いてもらう機会を得た。

自分なりに思い当たるストレスは複数あり、そのそれぞれを「これこれこういう状況で…」と話していった。「うん、うん、そうでしたか、それは大変ですね、しんどいですね」と言ってもらいながら、自分でも考えが整理されてきたり、思わぬことを思い出したり。

先生的には、これだけストレスの要因がいろいろあれば、不安感が高まったりするのは自然な反応で、いわゆる病気的なうつ状態とはちょっと違うと考えますとのこと(この辺は医師によっても考え方や判断が変わってきますが、とも加えつつ)。一方、鍵を閉めたかとか、火を消したかがやたらと気になって何度も確認する、ということはないか、といった話になり、「まさにそれです(笑)」という流れから、そしたらちょっと薬をためしてもいいかもしれない、とのことで抗不安薬をもらうことになった。

ところで、自分がいま直面しているいくつかの問題は、個々には別個の問題ながら、突き詰めて考えていくと「自分は死ぬのが怖いんだな」というところにたどりつく。人生の残り時間を、ここ数年かなり意識するようになり、自分が生きている間にできることは限られてるなとよく感じる。40代半ばになって、身体の各所の不調や衰えを日々実感する中で、その意識が高まっている。

また、最近よく感じるのは、自分は文章を書くことが好きじゃないんだなということ。書くのが辛い。自分は幼少期、書いたり読んだりすることから最も遠くにいるような人間で、しかし、色々な流れからライターになり、早20年ほど文章を書き続け、それを生業にしているけれど、でもやはり根本では、自分は書くことが好きじゃないんだなあという、何をいまさら的な、なかなか辛い実感にたどり着いてしまった。同業のライターの人たちの、書くことが本当に好きそうな人たちに囲まれる中で、最近その事実から目を背けることが難しくなってきてしまった。

じゃあ、いっそのこと全く別な仕事をすればいいかと言えばそうもいかない。厄介なことに、それでもぼくは、自分にとって切実な問題については、自分なりの方法で思いを伝えたいという気持ちが強くあるからだ。つまり、そういった事柄は、書くのがしんどくてもなんとか書きたいという気持ちがある。その思いを一番はっきりと形にできたのは『吃音 伝えられないもどかしさ』だと思う。今後も、吃音のような、自分に本当に切実なテーマについては、本のようなまとまった形で世に問いたい。いや、むしろ、人生の残り時間が常に気にかかる中で、そのモチベーションはむしろ上がっているようにも思う。

ただ一方で、自分はそういうテーマだけを書いて生活していけるような、書き手としての能力はない。書くのにもとても時間がかかる。だから、日々単発の仕事として書くことを次々にやっていかないと生きていけないのだけれど、それがどうにも苦痛になってきてしまったのだ。そうした仕事に追われていると、ただ技術と時間をお金に換えているだけで人生の残り時間がどんどん過ぎていっているだけに思え、焦ってしまう。このままただ時間だけがものすごい速さで過ぎていき、あっという間に人生が終わってしまうような気がしている(とはいえ、ひとこと付け加えると、そのような単発の仕事も決して手を抜いたりはしていません。発注される方は、これを読んでもどうぞご安心を)。

旅も人生も、終わりがあるから感動がある、というのは、5年の旅を経ての実感だし、それはいまもそうだと思っている。何事も、終わりがあるからいいんだと。大学の講義でもいつもそんなことを話している。でも、そう言いながらも、自分が一番、終わりを怖がっているのかもしれないとも思う。終わりがあるからいい、というのは自分に言い聞かせてるような気がしてきている。

どうにも、吐き出す場所がなく、ブログに気持ちを書いてしまった。最近、仕事以外では全く文章を書く気がしないので、こういう自発的な文章を書けてよかった、という気持ちと、それだけ気持ちがいっぱいいっぱいなのかもしれない、という恐れと半々な思い。



読売新聞書評欄「ひらづみ!」『心はどこへ消えた?』(東畑開人著、文藝春秋)

読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム、担当5回目は、臨床心理士の東畑開人さんの『心はどこへ消えた?』を紹介しました。記事に書いた通りですが、東畑さんの、軽妙ながらも実に考えさせられる文章は、とても魅力的です。前作『居るのはつらいよ』は大きな話題となり、大佛次郎論壇賞も受賞した名作ですが、こちらも本当にいい本です。両方ともぜひ。

夢の記憶

今朝、起きたとき、ちょっと記憶にないくらい鮮明に夢を覚えていて驚きました。
いまちょうど、取材の関係で、『明恵 夢を生きる』(講談社+α文庫)という河合隼雄の著書を読んでいて、すごく面白くて、夢について色々考えていたからかと思うのですが、その内容もなんだか考えさせられるものだったので、備忘録を兼ねて以下にその内容を書いておきます。


・・・・・
ある日、ある町で、16時からカフェでトークイベントをやることになっていた。場所はのどかな小さな町で(チベットの田舎町とヨーロッパの田舎町をあわせたような風景)、その町まで、時間に余裕を見て自転車で行った。天気のいい、気持ちのいい日。目的地に15時ごろに着いたので、別のカフェで時間をつぶすことにした。15時半過ぎくらいにここを出て会場のカフェに迎えばいいだろうと思いながら。

(で、ここからはちょっと記憶が曖昧なのだけれど、別の場面に移り、高校時代の友だちやカメラマンの友人、年上の先生的な人も出てきて、何やら新しいことをやろうとか、色々話している。おそらくこのカフェで起きたことのような。うまく話が進んでて、いい気分で印象。なぜかその場面は夜)

いずれにしても、そうこうしているうちに気づいたら時間が15時50分くらいになっている。「あ、やばい、間に合わないじゃないか…!」と焦り、早くカフェを出ないとと思いながら、なぜか青空やピンクの壁など屋外のような美しい風景に囲まれている(モンゴルのウランバートルを想起させる景色)。しかしまだカフェの中で、もう確実に遅れると確信し、焦りながら主催者に電話した(西澤さんとかそんな感じの名前の女性)。

自分「すみません、まだ別のカフェにいて、いまから行きますが、少しだけ遅れそうです、申し訳ないです」
女性「近藤さん、はい、わかりました。お待ちしてます」

女性は友好的な応対してくれてホッとする。

そして、イベント会場まで急ごうとするも、まだカフェの中に、自転車とともにいる。そして、自転車を押してカフェを出ようとすると、なぜかカフェの中にとても急な坂があって、出口まで自転車を押して上がることができない。すると、若い男性3,4人くらいが「手伝いましょうか」と声をかけてくれて、自転車を一緒に持ち上げてくれる。坂を上がりながら、彼らに「いい自転車ですね」とか言われて、なぜかそこで、自転車でユーラシア大陸を横断した友人の話をして、自分も2年ほど中国に住んでいて……、とか話し「ユーラシア大陸横断、やってみたらどうですか」などと薦めている。時間がないのに。

そんなことをしていると、カフェの出口まで15分くらいかかってしまった。カフェを出て、一人になった時、すでに16時15分くらいであることに気がつく。「これは本当にやばい」と真っ青になって、主催者の先の女性に電話する。すると、女性が激しく怒り出す。

「こんなに遅れるなんて、どういうことですか。あり得ません。ひどいです。二度とこんなことはしないでください」

ひたすら怒られるが、当然だ。「本当に申し訳ないです、いま急いでいきますので…」と言いながら、なぜか自転車を押して歩いている。どうも何かを持っているせいか、電話をしながら自転車に乗れない。自転車を押しながら、杖をついているような印象も。

女性は電話で延々と怒り続けている。時刻は16時半に。これは本当にまずい。そして女性に言う。「すみません、電話していると自転車に乗れないので、いったん切ります。後で話は聞きますから。本当にすみません」。電話を切る。すぐに自転車に乗って、イベント会場に向かう。

しかし、自転車をこぎ出して前を見て、絶望的な気持ちになる。まっすぐな道が地平線まで延びているのだ。果てしなく、どこまで続くのかもわからない。

「ああ、会場には永遠につけないんじゃないか。どうすればいいんだ……」

きれいな青空が広がっている。真っすぐな道の両側は、柔らかそうな緑と黄色の草地がどこまでも続いている。とても美しい風景の中、一人途方に暮れながら、ただ自転車をこぐ……。
・・・・・

そこで目が覚めました。
外の景色やカフェの中の様子、さらに主催者の女性の顔もはっきりと記憶にあり、話も色も鮮明な夢でした。そして、美しくも絶望的な夢でした。

『明恵 夢を生きる』には、明恵(みょうえ)という鎌倉時代の僧侶が、自身の夢を40年にわたって記録し続けて、その影響を受けながら生きた様子が書かれています。そして明恵の人生と、河合隼雄の分析から、夢が人生に対して持つ深い意味が書かれています。
夢と言えば、自分にとってはフロイトの『夢判断』。それを学生時代に読み、しかしフロイトの考えはいまや否定された過去の遺物と思っていたら、近年、脳科学の研究などから、やはりフロイトは正しかったかもしれない、とも言われるようになってきたことを先日の取材で知りました。そして『明恵 夢を生きる』が面白くて、読みながら、夢が人生において持つ意味を考えています。だからこそ、なんだかこの夢が不吉なような、深い意味がありそうな気がして、気になっています。

また記憶に残ったら夢を書き残してみようかな。いまふとそう思っています。

そんな2022年の始まり。

「いまさら」も「遅すぎる」もない

昨日、ついにギターを購入しました。

ほぼ捨ててあったような状況らしいギターを妻が職場でもらってきてくれ、練習を始めて今で1年3カ月ほど。1年経っても飽きてなかったらちゃんとしたギターを買おうと思っていたところ、熱は冷めず。Youtubeのおかげで、思っていた以上に自分だけでも練習できることがわかりました。

その上最近、ライター&ギター仲間の大越さん、青山さんとオンラインギターセッションを始めるようになって、ますますやる気が上昇して、ついに買うことにきめ、最近楽器屋を回って探していました。

東京と京都で何店舗か見て回って弾かせてもらっているうちに、いいギターの素晴らしさやモノとしての魅力を実感し、さらに買う気は上昇。

しかし、なかなかこれというのに出会えないなあと思っていたところ、先週末、最も気になっていた国産ハンドメイドのヤイリギターの「ああ、これだ」という一本に出会い、すぐ気持ちが決まりました。

最近、モノを買って嬉しい、ということがほとんどなくなっていたけれど、今回は久々に本当に嬉しい。触ってるだけで幸せって、なんか子供の時に超合金のロボットを買ってもらった時のよう笑。ギターとの出会いは、コロナ禍においてもっともよかったことかもです。

最も弾きたかった曲の一つ、Jack JohnsonのBetter Togetherが、一応最後まで弾けるようになり嬉しい。

(一応、です…! 今日オンラインセッションで弾き語りしたら、2人の前で緊張して笑、歌詞が全部飛んでほとんど歌えず)

40代半ばでギターを弾く楽しみを知って、いまさらとか、遅すぎるはないと実感してます。