ものを書くのは、幸せになるためだ――スティーブン・キングの『書くことについて』

今年度、書くことについて授業したりする機会が少し増えそうな予感がある。であればこれまでよりも確固たる意識で臨みたく、こないだ本多勝一の『日本語の作文技術』を20年以上ぶりに読み返した。やはり名著だなと感じ、その流れで、スティーブン・キングの『書くことについて』も読み返した。

『書くことについて』は、10年程前、作家の新元良一さんに薦められて読み、大きな刺激をもらって以来、文芸学科の学生などによく薦めている。一度読んだきりだったので詳細は忘れてしまいつつも、読んだ時の気持ちの高まりや、おれももっと書こう!と思った気持ちだけはずっと頭に残っていた。久々に読み返すとまさに、「そうだった、この興奮だった」と、最初に読んだ時の気持ちを思い出した。

キング本人の自叙伝的文章から始まり、書くことについての具体的な方法論へと移っていく。全体として物語性があり、引っ張る力がすごい(田村義進さんの訳の良さもあると思う)。1つのノンフィクション作品のような作風だが、読み進めるほどに、「書くことついて」というテーマがいろんな形で伝わってくる。

自叙伝的部分からは、超大御所の作家でもやはり最初は苦労したんだなということが伝わってくるし(クリーニングの仕事や高校教師をしながら、作品を投稿しては不採用通知が届く、という時代がしばらくあった)、方法論の部分も、文章の技術的な点(とにかく文章はシンプルにしろ、と)、どう書き進めるか、原稿の見直しの仕方、リサーチの方法、編集者へ手紙を書く上で大事な点など、自身の経験に基づいた方法や考えを率直に、具体的に書いている。

方法論の中で特に印象的な部分がある。<ストーリーは自然にできていくというのが私の基本的な考えだ>(p217)というあたりだ。<作家がしなければならないのは、ストーリーに成長の場を与え、それを文字にすることなのである><ストーリーは以前から存在する知られざる世界の遺物である。作家は手持ちの道具箱のなかの道具を使って、その遺物をできるかぎり完全な姿で掘りださなければならない>

ストーリーは、土の中に埋まった化石のようにすでにそこにあり、それを丁寧に、傷つけずに掘り起こすのが作家の仕事だと言うのである。

<最初に状況設定がある。そのあとにまだなんの個性も陰影も持たない人物が登場する。心のなかでこういった設定がすむと、叙述にとりかかる。結末を想定している場合もあるが、作中人物を自分の思いどおりに操ったことは一度もない。逆に、すべてを彼らにまかせている。予想どおりの結果になることもあるが、そうではない場合も少なくない。サスペンス作家にとって、これほど結構なことはないだろう。私は小説の作者であると同時に、第一読者でもある。私が結末を正確に予測できないとすれば、たとえ心のなかでは薄々わかっていたとしても、第一読者はページをめくりたくてうずうずしつづけるだろう。いずれにせよ、結末にこだわる必要がどこにあるのか。どうしてそんなに支配欲をむきだしにしなければならないのか。どんな話でも遅かれ早かれおさまるべきところへおさまるものなのだ>(p219)

この言葉は、小説に限らずさまざまな文章を書く上でのスタンスとして、すごくヒントになる気がした。

方法論について書かれたあと、再びキング自身の話に戻るのだが、そこには、1999年の大事故について書かれている。彼は散歩中にヴァンに轢かれ、生死の境をさまようほどの大けがを負ったのだ。それはこの本を書いている最中のことだった。病院での苦しい治療中に彼は考える。<こんなところで死ぬわけにはいかない。> <もっと書きたい。家に帰れば、『書くことについて』の書きかけの原稿が机の上に積まれている。死にたくない>(p346)……。

その章の最後は、大事故による困難を経たあとの彼の、書くことについての思いで結ばれているが、その言葉が深く響いた。

<ものを書くのは、金を稼ぐためでも、有名になるためでも、もてるためでも、セックスの相手を見つけるためでも、友人をつくるためでもない。一言でいうなら、読む者の人生を豊かにし、同時に書く者の人生も豊かにするためだ。立ち上がり、力をつけ、乗り越えるためだ。幸せになるためだ><あなたは書けるし、書くべきである。最初の一歩を踏みだす勇気があれば、書いていける。書くということは魔法であり、すべての創造的な芸術と同様、命の水である。その水に値札はついていない。飲み放題だ。/腹いっぱい飲めばいい>(p358-359)

文筆業をはじめて20年以上が経ち、いま、書くことは自分にとって、生きるための手段という側面が随分大きくなってしまった。だからこそか、この言葉はすごく響いた。強く背中を押してもらった。読者を幸せにし、自分も幸せになるために――。

あと一点、どこだったか見つけられなくなってしまったけれど、前半に書いてあったこと。投稿しては不採用の通知をもらうという日々でのことだったか、作家デビュー直前のころのことだったか。ある編集者がかけてくれた一言によって、救われた、といった話があった。

それを読んで思い出したのが、自分が旅に出る前に、「週刊金曜日」のルポルタージュ大賞に応募した時のことである。確か原稿を送ったのは2002年の年末で、2003年3月に発表があった。送ったのは、吃音矯正所について書いた原稿用紙50枚ほどのルポルタージュ。

受賞の連絡はないままに結果発表の号が発売する日となったので、「ああ、だめだったんだな……」とがっくりしながらその号を手に取った。結果発表のページを見ると、やはり受賞はしていなかった。ところが意外なことに、誌面に自分の名前が見えた。編集長が講評の中で、自分の応募作について触れてくれていたのである。確かこんな主旨の言葉だったと記憶している。

<近藤さんの吃音矯正所のルポもよかった。ただ、構成の面でもう少し工夫がほしかった。次回作に期待したい>

その言葉は、実績もなく先行きも見えないまま、ライターとしてやっていくために日本を離れる直前だった自分にとって、かすかな、しかし大きな希望となった。その言葉があったから、結果発表のすぐあとに思い切って「週刊金曜日」の編集部を訪ね、なんとか載せてもらえないかと相談に行けた。結果、分量を半分くらいにし、追加取材をすることで掲載してもらえることになった(その記事)。そうして初めて、自らテーマを決めて書いた記事が雑誌に載ることが決まり、一応はライターと名乗ってもいいだろうと思える状態で6月、日本を出発することができたのだった。

その時の編集長は岡田幹治さん。2008年に帰国した後、同編集部に挨拶に行ったときにはすでに編集長を退任されていたのでお会いすることはできなかったが、あの一言が自分の背中を大きく押してくれたことは間違いない。いまもとても感謝している。

その岡田幹治さんが、2021年7月に亡くなられていたことをいま知った。

確実に時間が経った。いまやるべきことはいまやらないと、と改めて思う。

AIR DOの機内誌「rapora」に、<能楽師・有松遼一と巡る 源氏物語の京都>を執筆

北海道の航空会社AIR DOの機内誌「rapora」2024年4月号(4月1日発行)に記事を執筆しました。

<能楽師・有松遼一と巡る 源氏物語の京都>

大河ドラマ「光る君へ」によって『源氏物語』が盛り上がる中、舞台となる京都にある物語ゆかりの地を紹介しようという6ページの特集記事です。案内役となってもらったのは、若き能楽師として活躍する有松遼一さん。京都在住の有松さんとは友人でもあり、この特集の案内役に彼以上の適任はいないだろうと、依頼することになりました。取材・執筆は、僕と堀香織さんで担当し、撮影は松村シナさん。

有松さんとの打ち合わせで4か所のスポットが決まり(夕顔町、上賀茂神社、野宮神社、宇治川)、有松さん、堀さん、松村さん、そして制作会社である140Bの営業・青木さんとともに、昨年末に取材。記事を書きながら、この4か所を通じて『源氏物語』の大きな流れが見えてきて、学び多く楽しい仕事になりました(取材も大人の遠足のようで楽しかった!)。有松さんに案内役になってもらえて本当によかったです!

『光る君へ』もきっとさらに楽しくなるかと思います。
AIR DOご利用の機会には是非手に取ってみてください。







本多勝一さんの『日本語の作文技術』を20年以上ぶりに再読し、この本から受けてきた多大な影響に気がついた。

文章を書く上で自分が最も影響を受けてきた書き手は、沢木耕太郎さんだ。最初の出会いは確か、学部時代、研究室のスタッフだった女性に『一瞬の夏』を勧められたこと。その後、大学4年の卒業前に数週間インドに行った後に『深夜特急』を読み、そこから沢木さんのノンフィクション作品を次々読んだ。そして沢木さんのようなノンフィクションを自分も書きたいと思うようになり、ライター修行も兼ねた長い旅に出ることになった。長旅に出たとき、教科書としてバックパックに入れていったのもすべて沢木さんの文庫本だった。『敗れざる者たち』、『人の砂漠』、『紙のライオン』、『彼らの流儀』、『檀』などで、中でも、『彼らの流儀』と『人の砂漠』は、書き出しや構成を考える上で、何度も何度も読み返した。

一方、そもそも本の面白さを初めて自分に知らしめてくれたのは、立花隆さんの作品だった。それは沢木耕太郎作品に出会う前、大学に入って間もないころのことである。一浪をへて大学に入り、「物理学者か宇宙飛行士を目指すぞ」と高いモチベーションを持っていたころ、立花氏の『宇宙からの帰還』を知った。高校時代まで、読むことにも書くことにも興味を持てず、本とはほとんど無縁だったが、ふとこの本を読み出したら、夢中になった。初めて本を面白いと思った。その後、彼の作品をあれこれ読み進めていく中で、もしかしたら自分は、サイエンスについて書くジャーナリストのような仕事に興味があるのかもしれない、と思うようになる。当時大学で立花氏の講義があり、それを何度か聴講した影響もきっとあったのだろうと思う(やってくるゲストがすごかった。大江健三郎だったり、鳩山邦夫だったり。90分の授業を180分まで延長したあげく「これで前半終了。これから後半」と言ったのにも衝撃を受けた)。

いずれにしても、そうして立花隆の影響を受けたあと、ようやくそれなりに本を読むようになり、その過程で沢木耕太郎作品に出会った。そして結果として沢木さんの影響をより濃く受けるようになったというのが、自分自身の認識である。

しかしその認識は少し修正されるべきかもしれないと、最近ある本を読んで、思った。それは本多勝一の『日本語の作文技術』である。大学時代に読んだこの本を再読し、自分はこの本の影響をとても強く受けているだろうことに気づかされたからだ。

立花隆を知ってからか、沢木耕太郎を知ってからかははっきりとは覚えていない。けれども、文章を書いて生きていきたいと考えるようになってからこの本を読み、読んだだけでなぜか文章がうまくなった気がしたことはよく覚えている。

読んだだけでどうしてそんな気持ちになれたのか。それを知りたいという気持ちもあって今回再読したのであるが、読むほどに納得できた。いま自分が文章を書く上で大切にしている技術的なポイントの数々が、これでもかと書かれていた。緻密ながらもわかりやすく。「そうか、自分はこの本を読んだから、このような意識で文章を書いているのか」と再認識した。

2章の冒頭にこんな例文が登場する。

<私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った。>

多くの人は、「こんなわかりにくい文を書く人はいないだろう」と思うだろう。自分も思った。ちょっと笑った。うん、確かにこれは極端だ。しかし、私たちが日々接する少なからぬ文章が、実際にはこのような書き方になってしまっているらしいことが本書を読むと見えてくる。こうならないように気を付けるだけで文章はかなりわかりやすくなる、そのためにはどうすればいいか、を様々な側面から極めて具体的に教えてくれるのがこの本なのだ。

私たちが学校で習う日本語の文法は、明治以降の西洋の文法観の影響のもとに築かれたものであると本書は言う。その結果、日本語の文法は、日本語にそぐわない形で体系化されてしまったという話もなるほどだった。特に、「主語と述語」が大事だというのは英語の話で、日本語には「主語はない」(主格があるだけ)、という論には頷かされた。この例を代表とするような西洋の文法観が知らぬ間に私たちの日本語の捉え方にも影響を与えているのだとすれば、それは私たちが書く日本語にも影響を与えているのだろう。50年前に書かれたことだから、いまでは常識なのかもしれないけれど。

一方、50年近く前の本ゆえに、いま読むと驚かされることも数多い。
たとえば、本多氏は言う。いま(=70年代)「あぶないです」「うれしいです」という言葉遣いが増えているがこれは間違い、「あぶのうございます」「うれしゅうございます」と言うべきである、と。また、英語は専門家にしか必要がないから中学生が学ぶ必要などない、とも書かれていた。いずれも、いま読むと逆にとても新鮮だった。さらに、当時は手書きで書くのが当然の時代だったからだろう、植字工が植字を間違えないようにするための原稿執筆段階での工夫なども書いてあって興味深い。

背景がそれだけ違う時代に書かれた本でありながら、しかし、文章技術に関する話は、いま読んでも一切古びた感じがないし、違和感もない。

文筆を生業として20年以上がたったいま、改めて読めてよかった。

古賀史健『さみしい夜にはペンを持て』を読んで、思いがけない光が見えた

次女は本が好きなので、学校に行かずに家で過ごす午前中に、よく一緒に本屋に行く。

行くといつも、「何か一冊ほしいのがあったら」ということになり、次女は喜んで本を探す。その彼女が先日選んだのがこの本だった。古賀史健さんの『さみしい夜にはペンを持て』。娘はこの本を書店で何度か見たことがあるようで知っていて、自分も読みたいと思っていた本だった。

帰って早速読み出した次女は、学校に行けない主人公のタコジローに共感することが多かったようで、「気持ちすごくわかるー」「読書感想文が好きじゃない理由、タコジローと全く同じやわ」などと言っていた。読み終わると「好きな本の一冊になった」。「日記、少し書いてみようかなって気持ちになった」とも。実際に書いてはいないようだけど。また、ならのさんのイラストにもとても惹かれたようだった。

僕も昨日読み出して、さっき読み終わった。娘の話から想像するよりも文章読本的要素が強かったけれど、娘が「気持ちわかる」と言っていたのにすごく納得した。文章、そして日記を書く意味を教わっていくタコジローが、教えにすぐには納得せずに「でも……」と疑問をぶつける様子が、娘の感覚に似ているのだろうなと思った。

自分にとっても、タコジローが疑問を挟むのは、「そう、そこを聞いてほしいと思ってた!」と感じる点ばかりで、とてもしっくりきた。本全体として「誤魔化していない」感じがあった。子どもを言いくるめようとしてなくて、正面から答えている。だから、子どもに届くのだろうなと思った。

また、書くことについてたくさんの発見があった。「世界をスローモーションで眺める」「メモは、ことばの貯金」「『これはなにに似ているか?』と考えてみよう」などの言葉は、なるほど!だった。文章を書く上でなんとなく自分もそのようにやっているような気はするけれど、言語化できるほど意識できてはいなかった。このような形で明確に言葉にしてもらえると、その点に意識的になれて、これから書いていく上で少なからず助けになりそうに思う。これらが書かれた<4章 冒険の剣と、冒険の地図>はまた読み直したい。

そして何よりも、この本を読みながら、ふと大きな気づきを得た。
どうすればいいかわからないまま1年ほどが経とうとしている事柄について、もしかしたら、こうすればいいかもしれないという案が浮かんだ。初めて、フィクションとして書いたらいいのかもしれない、と思った。ある人に宛てた手紙のような形にして。会ったことはなく、向こうも自分を知らない、ある一人の人に宛てた物語として。

明らかにこの本がくれた気づきだった。
大きな光が見えた気がする。
できるかどうかわからないけれど、やってみたい。

タコジローの物語に、大きな力をもらいました。
この物語を届けてくれた古賀さんに感謝です。

武田砂鉄『わかりやすさの罪』のライブ感に圧倒され、読みながらぐるぐる考えた

武田砂鉄『わかりやすさの罪』読了。圧巻の読後感で、いまの気持ちを書き留めておきたいと思って、読んだ直後にこの文章を書きだしている。何を書いたらいいかはわかっていない。

武田さんがこの本の中で、何を書くかを決めないまま「見切り発車」でいまこの原稿を書いている、といったことを書いていた。そう言いつつ、ある程度道筋を立ててから書いているのだろうと当初は思ったりもしたのだけれど、読み進めると確かに、その場で必死に手探りしながら話を展開させているように感じられてくる。その章のテーマに関する話題が縦横無尽に飛び込んでくる。急に話が変わったりする。で、その一つ一つが、確かにテーマを多面的に考えさせてくれる。臨場感やライブ感が文章にあり、その熱量がこちらに直球で届いてきて、こちらも激しく思考することになる。読んでいてこちらも息が切れてくるというか、まさにライブを見にいったときのような心地よい疲労感を得ながらページをめくった。

自分自身のことを言えば、自著について「読みやすかった」「わかりやすかった」という感想をもらうのは、正直そんなに嬉しくはない。昔は嬉しかった気もするのだけれど、いまは、わかりやすいかどうかよりも、自分が伝えたいと思った事実やメッセージがどう届いたかが気になる。読後に思わず考えこんだ。などと言われたら、読んでもらえてよかったと思う。

でも一方で、自分の日々の仕事として多いのは、研究者にインタビューしてその研究について記事を書くことである。その場合は、「わかりやすかった」と言われるのは嬉しいし、よかったと思う。というのも、こういう記事の場合、記事を書く主要な目的は、専門家でないととてもわからないような難解な事柄を、その分野に縁のない人にもわかってもらえるように伝えることだから。

とは思いながらも、改めて考えてみると、科学の研究というのは、どんな分野のことであっても大抵、そんな記事1本では本当の深いところはわかりようがない。本当にはわかっていないことについてあたかもわかったような気持ちになれる記事を自分は書いているだけ、ともいえる。それでいいのか。いや、このような記事の目的は、研究を細部まで理解してもらおうということでは決してなく、あくまでも研究に興味を持ってもらう入り口としての役割を果たすことであるからいいのだ、とも思う。それを読んで、さらに深く知りたいと思ってもらえるきっかけが作れたらよいのだと。

ただ自分自身、にわか勉強とインタビューだけでは、研究者が人生を賭してきた研究の細部は到底理解できない。わかっていないまま書いている。自分の理解が及んだ範囲で、研究の内容を咀嚼して、必要なところを自分の表現に置き換えて書いている。そう考えると自分は、本当にはわかっていないことを、あたかもわかった気になれるような文章を書く技術だけが身についてきてしまったのではないか、という気もする。この本を読んで、そう思った。

でも、じゃあ、本当に細部までわかっていないのであれば、書かない方が良いのかと言えば、そうは思わない。もしそうであれば、研究者や当事者本人以外、何も書けなくなってしまう。武田さんも書いている通り、それは違うだろう。大事なのは、書き手が、話し手が、「わかっていない」ことを自覚しながら発信することだと思う。そしてまた受け取り手も、何かを読んだり聞いたりしても、決してすべてをわかったような気にはならないこと。ある事柄のほんの断片を知ることができただけだと考えること、ではないか。世の中のあらゆることは複雑で、わかりやすいことなどほとんどないのだから。

しかし現実には、わかっていないことをわかったように伝え、わかっていないことをわかった気になって安心するという現象・状態が蔓延している。わかっていないのに、わかったようなふりをして、「これを読めばすぐにすべてがわかりますよ!」とアピールして人を引きつけ、儲ける。それを読んで、「そうだったのか、これで全部わかった」という気持ちになって、考えることをやめる。そういうことがますます増強される社会になっている。

そんな社会に対する違和感、嫌悪感を武田さんは、本書で粘り強く、さまざまな事例から、これでもかと書く。なるほど、まさに!と頷くことが多いながら、うまく理解できなかったこともあり、また、ん、そこは自分はそうは思わない、と思うところもあった。だからいいのだろう。武田さんの言葉をこちらも真剣に考えた。お前はどう考えるんだと何度も問われた気持ちになった。そうして、考え、しかし完全にはわからないからこそ、また考える。そういう体験が社会全体に必要なのだろう。わかりにくいことを受け入れる。わかりにくいことに向かっていく。いろんな人と、感想を語り合いたいと思った。

「文庫版によせて」の最後の一文、
<「うまく言葉にできない」を率先して保ちたい。>
に自分は、吃音によってうまく言葉にできない人の思いを重ねた。
1分で要点を言える人が偉い、すごい、みたいな社会の中で、
「うまく言葉にできない」ことの意味はあると思う。
でも、それをうまく言葉にできない。考え続けたい。

武田さんにならって「見切り発車」で感想を書いたら、このような文章になった。うん、この感覚を大切にしたい。

20代のころ、旅する自分の背中を押してくれた『婦人公論』の「ノンフィクション募集」。荻田泰永さんと河野通和さんの対談から蘇った記憶。

冒険家の荻田泰永さんが主催する「冒険クロストーク」で荻田さんと河野通和さんの対談を見た。河野さんは『婦人公論』『中央公論』『考える人』などの編集長を歴任された編集者。対談では、河野さんの青年期、編集、野坂昭如、婦人公論、本、冒険、考えるとは…、興味ある話題ばかりで、3時間半という長さながら、飽きる所がなかった。

感想はとてもたくさんあるのだけれど、自分にとって特に大きかったのは、ずっと忘れていたかつての記憶がふと蘇ったこと。それは河野さんが編集長をされていた『婦人公論』のことである。

僕は長い旅に出る前の2002年ごろ、ライターとして一つでも実績を作るために、いくつかの雑誌の賞に、手探りで書いたルポを 送ったりしていた(当時はネットで書くという選択肢はほとんどなく、ライターになるためには紙の雑誌に書く場を見つけなければならなかった)。そのため当時、本屋に行ってはいろんな雑誌を見たり買ったりしていたのだが、 その中で確か知る限り『婦人公論』にだけ、「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」といった記載があった。

河野さんのお話から考えると、 当時『婦人公論』はリニューアルしてすでに4年ほど経っていたことになるが(河野さんは、1998年の同誌のリニューアル時から数年の間編集長をされていたとのこと)、なんとなく自分の中に、表紙がスタイリッシュになって新しくなった雑誌という印象があり、内容も自分の感覚に近いような印象があった。加えて、ノンフィクションを募集している雑誌としても記憶に残った。

そして2003年6月、僕は結婚直後の妻とともに旅に出た。旅をしながら、なんとかライターとしての道筋を構築するために、ほとんどツテも縁もない中で、書いたものをいろんな雑誌にメールで送ったりしていたが、送る先はほとんど、ネットで見つけたinfo@出版社名.co.jpとかwebmaster@出版社名.co.jp的なアドレスだった。当然返事は期待できなそうな中、『婦人公論』だけは、原稿を募集しているし、でも旅の話なんてお門違いかなあとか…、いろいろ思いながらも、堂々と送ってもよさそうな媒体だった。そして旅のことだったか、取材したことだったかを、オーストラリアからだったか、東ティモールからだったか、送ったのだった。

すると思いがけずご丁寧な返事が届いた。原稿の掲載は難しいという内容だったものの、読んで返事を下さったことがとても嬉しく、 それからまた別なのを送って、また返事をもらい、 ということにつながった。結局原稿が掲載されることはなかったものの、やり取りができたことに背中を押された。その後、5年にわたった旅の日々の最初の時期、つまり、ライターとして全く仕事になっていなかった時代に、投げ出すことなくなんとか書き続けていくための原動力の一つに、『婦人公論』から届いたメールは確かになっていた。その時に送った原稿は、『遊牧夫婦』の元型の一部になっていると思う。

その時、お返事をくださった編集者はTさんで、 いま、中公新書の編集長されている。旅を終えて日本に帰ってから、 お会いしに行ったり、やり取りさせていただいたり、 ということにつながっていった。

そして、Tさんとのつながりから、旅の終盤、2007年~08年、ユーラシアを横断している最中には、『中央公論』のグラビアページに、 写真と短い文章を2度掲載していただいたが(中国西部で出会ったイスラム教徒たちの姿と、スイスの亡命チベット人の僧侶の姿)、その時の編集長はおそらく河野さんだったことを知り、思わぬご縁を感じるのだった(河野さんとはその後、氏が『考える人』の編集長をされていた時に同誌で連載をする機会をいただいたりして、以来いろいろとお世話になっています)。

いずれにしても、当時の『婦人公論』の、 「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」 という記載は、先行きが見えなかった自分にとって、 一つの目標となるような、数少ない希望になっていた。また、ライター経験はほとんどなく、海外で旅をしながらメールで文章を送ってきた若者にお返事をくださったTさんにすごく励まされたことはいまもよく覚えているし、本当にありがたかった。 そういう意味で、『婦人公論』には助けられた感覚があり、いまもなんとなく身近であり続けている。原稿を書いたことは今なおないのだけれど。そして同誌のサイトを見たら、同様の「ノンフィクション募集」の記載がいまもあり、嬉しくなった。

『婦人公論』のことを書いていたら、また別の形で背中を押してもらった媒体がいくつかあることを思い出した。その編集者の方たちが下さった一本のメールが、いまの自分へとつながっているんだなあと改めて思った。

                   *

下の写真は、旅出してから間もないころ、オーストラリア東部のカウラという町で、日本人捕虜暴動事件について取材らしきことをしていて、地元の新聞社を訪ね、事件の関係者を探しているといったら載せてくれた記事(Cowra Guardian, July 4, 2003)。急にこの記事のことも思い出し、探したら出てきた。

10日前に日本を出たところ、と記事に。一番の連絡先が滞在していた安ホテルの電話番号になっているのがすごい。メールアドレスも載せてもらっているけれど。当時は携帯電話も持ってなかったし、メールより電話だった時代なような。
『婦人公論』に送った原稿にも、この事件のことを書いた部分があったような…。

吃音「治療」の歴史 『吃音 伝えられないもどかしさ』第2章より

吃音「治療」の歴史について、近年の流れをざっと読めるサイトはあまりないように思ったので、拙著『吃音 つたえられないもどかしさ』から該当箇所を以下にアップしました。第二章の冒頭部分になります。2019年に刊行した本なので、現在の最新の治療など情報はありませんが、これまでの流れなどを知るのに参考にしていただければと思います(以下の文章は2021年に刊行した文庫版。2019年の単行本版から微修正あり)

治療と解明への歴史


一九二三年九月、関東大震災のどさくさの中、社会運動家の大杉栄は殺された。東京の憲兵隊本部にて、陸軍憲兵隊大尉甘粕正彦に絞殺されたのだと言われている。アナーキストとしてひるむことなく自らの主張を活動に移す大杉は、当時の政府や軍部にとってそれほどの脅威だった。

その大杉を特徴づけるものの一つが、吃音だった。社会主義者の山川均はこう記す。

《大杉君は非常に吃った。ことにカキクケコの発音をするときには、あの大きな眼をパチクリさせ、金魚が麩を吸うような口つきをした》

この文を含む追悼文集『新編 大杉栄追想』(土曜社刊)を読むと、山川を含む寄稿者一六人のうち半分以上が、大杉の吃音について触れている。大杉自身も『獄中記』の中で、二年以上の刑務所生活を送ったあとにどもりが急にひどくなったことを書いている。《その後まる一カ月くらいはほとんど筆談で通した》というほどだった。

大杉は、吃音を自分とは切り離せない「癖」として、特に隠そうともしなかった。だがその一方で、吃音を治すべく吃音矯正所に通っていた。

大杉が通った「楽石社」という矯正所は、教育家・伊沢修二によって東京の小石川に設立され、本格的に吃音矯正に取り組んだ日本で最初の施設として知られている。伊沢は、明治大正期において、特に音楽教育の分野で影響力を持った人物である。彼は、日本語や英語の発音の矯正法を探っていく中で、吃音の矯正にも興味をもち、研究を重ねた。

「吃音は、どもる人をまねることなどで身に付いてしまうただの習慣である」

伊沢はそう捉えていた。だから基本的には必ず治る、と。楽石社が創立された一九〇三年から伊沢が没する一九一七年までの間に、彼の方法で五〇〇〇人以上が吃音を「全治させた」とする記録もある。しかしその数字は、決して鵜呑みできるものではない。治ったといってもしばらくすると元に戻ったとも言われるし、大杉も最後まで吃音を治せていないのだ。

吃音とは何たるかがいま以上に知られていなかったその時代において、伊沢による吃音矯正は日本で少なからぬ存在感を持っていた。しかし彼の方法が吃音治療に効果があったとは考えにくい。それは、現在その方法が全く踏襲されていないことからも明らかだろう。

楽石社を開いた伊沢が没してから間もない一九二〇年代、アメリカでも吃音の研究が本格的にスタートした。それは、実質的に世界で初めての吃音の学術的研究だと言える。その研究をリードしたのが、アイオワ大学で言語障害の問題に取り組んでいたリー・エドワード・トラヴィスだった。

当時すでに、失語症などの研究から、脳の各部位はそれぞれ異なる機能を担うこと、そして言語は一般に大脳左半球(左脳)がつかさどることが知られていた。また一九一〇年代には、ロンドンで行われた学童への大規模な調査から、吃音のある子どものかなりの割合が、元々左利きだったのを右利きに矯正された子であったという結果が導かれ、広く知られるようになっていた。そうした中でトラヴィスは、同じアイオワ大学で精神医学を研究していたサミュエル・オートンの大脳半球についての考えもヒントに、一つの仮説を提出した。それは、大脳は本来、左右半球のいずれかが優位性を持っているが、そのバランスが崩れたときに言語機能が正常に働かなくなり吃音が生じる、とするものである。左利きの子どもは大脳右半球(右脳)が優位に働いているが、それを右利きにしようとすることで大脳左半球が働きを強め、本来の左右半球のバランスが崩れるのだ、と。

この説は、「吃音の大脳半球優位説」と呼ばれるが、より直接的には、左利きを矯正すると吃音になるとする説だと言える。そのいわゆる「左利き矯正説」は、その後の研究で反証も多く挙げられ、現在では一般に否定されている。ただ、九〇年代に行われた脳機能の研究では、吃音者は一般に大脳右半球が過剰に活動しているという結果が得られ、それは、左半球に生じている言語機能の不具合を右半球が補おうとしているゆえなのではないかなどと考えられるようになった。こうした議論がなされる出発点には、トラヴィスの仮説があるようである。

また、三〇年代になると同じくアイオワ大学で吃音を研究していたウェンデル・ジョンソンが新たな仮説を打ち立てる。それは「診断起因説」と呼ばれるもので、吃音は、発育段階でまだうまく話せない子どもに、母親なり周囲の人間が、それを吃音だと捉えて注意したり意識させたりすることによって始まるのだとする説である。つまり、吃音はその人が本来持っている特性ではなく、親などによって植えつけられることで発症するという考えだ。ジョンソンがそう考えたのは、第一に彼自身の過去の経験が関係している。ジョンソン自身、重い吃音を抱えていたが、その症状は、彼が五、六歳のとき、学校の先生からの指摘をきっかけにして両親が、息子に吃音が出始めている、と考えるようになってから悪化したと彼は信じていたのである。

ジョンソンは、その仮説を裏付けるデータを集め、一九三九年には、彼の指導の下、教え子の大学院生が、後に「モンスター・スタディ」という名で呼ばれることになる悪名高い実験も実施している。まず、吃音症状のある子どもとない子ども計二二人を孤児院から集めていくつかのグループに分ける。そして、彼らの話し方について褒めたり叱責したりすることによってどんな変化が出るかを調べるというものだった。端的に言えば、つまり、吃音がない子たちに対して、症状がないにもかかわらず「あなたは吃音の兆候を示している、その話し方をやめなさい」などと数カ月にわたって注意し続けたら実際に吃音が生じると彼らは予測し、その変化を観察しようとしたのである。

この実験によって吃音のない被験者が吃音を発症することはなかったが、結果、複数の被験者が実験途中から急に話さなくなったり、不安を訴えたりするようになった。何人かは実験を境に、その後精神的に深刻な問題を抱え出したともいう。

この実験については、ジョンソン自身もその後一切公表せず、長年知られないままだったが、二〇〇一年になってアメリカの地方紙によって発見、報道されたのをきっかけに広く知られ、大きな非難にさらされた。そしてその実験から七〇年近くが経った二〇〇七年になって、被験者に対してアイオワ大学が公式に謝罪し、慰謝料を払うという結果に至っている。

ジョンソンの「診断起因説」はすでに過去のものとなった。すなわち、吃音の状態が周囲の人間や環境の影響を受けるということはいまも信じられているものの、吃音がそれだけで発症するという考え方は否定されている。

そして近年、アメリカを中心に吃音の脳科学的研究、遺伝学的研究も進んだ結果、現在では、吃音は、その人の持って生まれた素質(遺伝子)と環境の両面に関係があると考えられるようになっている。九〇年代から二〇一〇年代に行われた七件の双子研究のうち五件では、その遺伝的要因の割合は七〇%あるいは八〇%以上であるという結果になった。加えて、二〇一〇年以降には、アメリカ国立聴覚・伝達障害研究所のデニス・ドレイナらの研究によって、GNPTAB、GNPTG、NAGPA、AP4E1という四つの遺伝子の変異が一部の吃音者に特徴的に見られることがわかってきた。ドレイナらは、これらの遺伝子の変異が、発話に関係する脳の部位の神経細胞に何らかの影響を与えているのではないかと考えるが、そのメカニズムははっきりとはわかっていない。また一方、これらの変異によって吃音を発症したと推定できるのは、吃音のある人全体の一〇%強に過ぎないであろうことも研究によって示されている。吃音と遺伝子との関連については、まだ多くが謎に包まれたままである。

治すのか 受け入れるのか

日本では現在、複数の研究者や言語聴覚士、医師によって、吃音の臨床や治療法に関する研究が進められている。大学などの機関の研究者としては、前述の九州大学病院の菊池良和、国立障害者リハビリテーションセンターの森浩一や坂田善政、金沢大学の小林宏明、北里大学の原由紀、広島大学の川合紀宗、福岡教育大学の見上昌睦らが知られ、その他、各地の病院や施設の言語聴覚士も、それぞれの方法で臨床や研究にあたっている。そうして臨床の方法などに関する知見が蓄積され、効果的とされるアプローチが徐々に絞り込まれてきた。

現在、吃音の治療や改善のための方法としては、主に

・流暢性形成法(吃音の症状が出にくい話し方を習得する)
・吃音緩和法(楽にどもる方法を身に付ける)
・認知行動療法(心理面や考え方に変化を促すことで症状を緩和する)
・環境調整(職場や学校といった生活の場面での問題が軽減されるように、周囲に働きかけたりする)

がある(子ども、特に幼児の場合については第七章で別途ふれる)。その具体的な手法には様々あり、それらを組み合わせるなどして、その人に効果的な方法を探るというやり方が一般的だ。また、これらとは別に、頭の中で好ましい体験をイメージすることで吃音を改善に導く「メンタル・リハーサル法」もよく知られている。ただ、どの方法を有用とみるかには、研究者・臨床家によって違いがある。訓練によって症状に直接働きかける流暢性形成法や吃音緩和法を重視する立場もあれば、心理的な側面や周囲の環境の整備に重きを置く立場もあり、見解は分かれる。一方、吃音の原因を解明するための脳や遺伝子に関する長期的な研究は、知る限り、日本では行われていない。

若い研究者も少しずつ増え、活性化しつつはあるものの、日本の吃音研究はまだ手探りの段階にあると言える。というのも、日本の各地で研究が進められ、それらが互いに共有されるようになってからまだ日が浅いのだ。現在のような状況へと進みだしたのは、二〇〇〇年代に入ってからぐらいのことでしかない。その理由はやはり、前述の通り、吃音が長年単なる癖などとして捉えられてきた影響だろう。

 

そのように、研究らしい研究が進みだしたのも最近であり、対処法も不明な状況が続く中、吃音のある人たちのよりどころとって少なからぬ役割を果たしてきたのが、当事者が自ら集まってつくる自助団体(または当事者団体、セルフヘルプグループ)である。ここ数年、SNSの発達などにより、急激に団体の数も増えているが、その中でも、日本で長年にわたって大きな存在感を持ち続けてきたのが「言友会」(NPO法人 全国言友会連絡協議会)である。

言友会は、そのウェブサイト(二〇一八年時点)によれば、《吃音(どもること)がある人たちのセルフヘルプグループとして、1966年に設立され》、《2016年1月現在、全国各地に32の加盟団体と約800人の会員を擁している日本最大の当事者団体》であるという。基本的なスタンスは、《吃音と向き合いながら豊かに生きる》ことを目指すというもので、その基盤にあるのは、言友会の中心的存在であった伊藤伸二らが一九七六年に採択した「吃音者宣言」である。伊藤は、小学校時代から吃音に悩まされ、矯正所に通ったこともあったが治すことは叶わず、その一方、矯正所を通じて同じくどもる人たちと出会う中で吃音と向き合えるようになったという。そしてその経験から、言友会の設立を牽引し、大学でも講師として言語障害児教育に携わるなどするうちに、吃音の関係者の間で名が知られるようになっていった。

その伊藤らは、「吃音者宣言」(たいまつ社刊『吃音者宣言』所収)の中で、吃音を治そうとすることに対して否定的な立場を明確にした。《どもりを治そうとする努力は、古今東西の治療家・研究者・教育者などの協力にもかかわらず、充分にむくわれることはなかった。》《いつか治るという期待と、どもりさえ治ればすべてが解決するという自分自身への甘えから、私たちは人生の出発(たびだち)を遅らせてきた。》と。そしてさらに、こう記した。

《全国の仲間たち、どもりだからと自身をさげすむことはやめよう。どもりが治ってからの人生を夢みるより、人としての責務を怠っている自分を恥じよう。そして、どもりだからと自分の可能性を閉ざしている硬い殻を打ち破ろう。
 その第一歩として、私たちはまず自らが吃音者であること、また、どもりを持ったままの生き方を確立することを、社会にも自らにも宣言することを決意した》

吃音を治そうとするべきではない。いかに受け入れて生きていくかを考えよう。そう訴える宣言なのである。

「吃音者宣言」はさまざまな議論を呼びつつも吃音当事者の間で大きな存在感を持つようになっていった。現在の言友会では、必ずしも会員みなが「吃音者宣言」を受け入れているわけではない。だが、治すことにとらわれず、吃音者同士が出会い交流し、様々な考え方や生き方を互いに共有することで各自が自らの生き方を探っていこうという方向性は、この宣言から始まっていると言っていいだろう。

言友会は半世紀以上にわたって、吃音のある人たちにとって貴重な交流の場を作ってきた。吃音者に与えてきた影響は小さくない。と同時に、言友会の存在は、当事者たちの置かれている状況の一面を表しているとも言える。すなわち、各々が吃音とともに生きていく方法を自ら見出していくしかないということだ。出口も治療法も、ないのだから――。

しかし、本当にそうなのだろうか。治す方法はないのだろうか。

(続く)

以降、書籍では、吃音の治療にかける言語聴覚士と当事者たちの物語が深まっていきます。

もしご興味持っていただけたら、本書を手に取っていただければ幸いです。現在、文庫版は品切れ重版未定となってしまったので、お求めの場合は、単行本をぜひ。こちらは書店でも入手できますし、このサイトからもご購入いただけます。詳しくはこちらへどうぞ。

2月3日(土)18時半~ 名古屋市のカフェこねっこ(Book Cafe Co-Necco)でともに話す会をやっていただけることに

もう明日ですが、名古屋市にあるカフェこねっこで、自分と一緒に飲んでお話をする会というのを開いてくださることになりました。カフェこねっこは、発達障害などの障害を持つ方の居場所に、というコンセプトで開かれたカフェで、拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』にも登場します。こねっこが今年10周年とのことで(おめでとうございます!)、10周年企画第一弾として現在、僕の本の特集をやってくださっています。たまたま明日2月3日に、機会があって訪れることになったので、いっしょに飲んでお話しする会を、ということになりました。
18時30分~、会費2000円くらいで、アルコール・ソフトドリンク、軽い食事は用意してくださるとのことです。
もしご興味ある方いらっしゃったら、お気軽にご参加ください!僕自身、何を話せるというわけでもないですが、集まってくださる方とともに、ただゆるく気軽な時間を過ごせたらと思ってます。楽しみにしています。

カフェこねっこ
https://co-necco.xii.jp/

自著をお送りするので、その代金+アルファを被災地支援に各自募金のお願い

チーム・パスカルの仲間である小説家・ライターの寒竹泉美さんが

<ZOOMで「インタビューライター入門講座」、受講料は被災地支援に各自募金(金額・寄付先はお任せ)>

ということをやっていて、とてもいいアイディアだなと、発想に共感しました。詳細を知って、能登半島地震の被災地への支援の輪が広がっていきそうな方法だなあと思いました。

そこで自分も、支援の輪を広げるために、何かそのような方法で被災地支援ができないかと考えました。自分の場合、すぐに講座をというのが現状なかなか簡単ではないため、思いついたのが自著を使って支援ができたら、ということでした。そこで、以下のいずれかの自著・共著を、ご希望の方にお送りします。その代金を自分に払ってもらう代わりに、ご自身でここぞと思える団体・組織に、本の代金+αを、被災地支援として寄付していただければ嬉しいです(金額はお任せします)。

また、支援の輪を広げたり、さまざまな寄付先の認知が広がるように、可能であれば、ご自身のSNSなどで寄付先を共有していただければ幸いです(その際に自著の宣伝みたいになってしまうのは本意ではないので、本のことは書いていただかなくて結構です)。

<対象の本>

『吃音 伝えられないもどかしさ』(単行本)1650円

『いたみを抱えた人の話を聞く』1870円

いずれか、ご希望の本をご指定の上、メール(ykon★wc4.so-net.ne.jp ★=@)や旧Twitter(@ykoncanberra)のDM、Instagram(kondo7888)のDMなどで、ご連絡ください。差し支えないお送り先を教えていただければ幸いです。

この2つの本を選んだのには自分なりに意図があります。

災害が起きて、避難所で生活をしたりする中で、いろんな人とその場でコミュニケーションを取らなければならなかったり、また電話をしなければならないとなったとき、吃音のある人には少なからぬ心理的負荷になりえます。普段とは違う状況下で、普段あまり関わりのない人に、何かを伝えたり尋ねたりしなければならないことは、かつて自分はとても苦手で、大きな心理的負荷がかかりました。結果として、尋ねることを断念して自分でなんとかする、ということもよくやりました(例:名前を言うということが難しかったため、自分の名前を言わないといけない場は必要であっても断念するとか、旅中、トイレの場所を聞くことができずに激しく我慢した、などなど)。

しかし緊急時はそうは言っていられないことも多いだろうと想像できます。その上、すぐに伝えなければならなかったり、即座に返答を求められたり、その場で名前を言わないといけないようなこともあるのではないかと思います。または、ご自身の生活のために必要なことを、話すことを回避するために断念してしまうということにもつながりかねません。そういう時に、相手が吃音のことを少しでも知っていてくれたら、気持ちが楽になり、話したり必要な行動を取ったりもしやすくなるし、また吃音当事者と向き合う人も、状況が理解できれば、不可解に思ったりせずに済むはずです。

『吃音 伝えられないもどかしさ』をお送りすると表明し、このページを読んでもらったりすることが、吃音当事者が被災地の現場でそうした問題を抱えている可能性があるということを意識してもらうきっかけになったら嬉しく思います。また、吃音以外でも、一見わかりにくい障害や問題を抱える方たちが、さまざまな困難を抱えている可能性を想像してもらうきっかけになったら幸いです。

また、『いたみを抱えた人の話を聞く』については、いま被災地に、想像を絶するいたみを抱えた人たちが数多くいらっしゃること、そしてそういう方たちの話を聞くということがこれからきっと重要になっていくということに、少しでも広く意識が向けられるきっかけになったらと思いました。この分野については、自分は専門的に語れる立場にないため、何も言うことはできませんが、共著者の緩和ケア医・岸本寛史さんの言葉はきっと、困難な状況下にある方たちの話を聞く上でのヒントになるように思います。

自分の貧弱な資金力では、どれだけの数のご希望に対応できるか現状わかりませんが、とりあえずご希望の方がいらっしゃったらお気軽にご連絡ください。

とても微力ですが、被災地支援の輪を広げることに少しでも役立てることを願っています。そして、被災地で困難な状況にあるみなさんの状況が一日でも早く改善されることを願っています。

『君たちはどう生きるか』と『心に太陽を持て』

年明け最初に読了した本は『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)になりました。

この本は、子どものころ全く本を読まなかった自分に、ある時(おそらく小学生のとき)祖母が「読んでみたら」と岩波文庫版を買ってきてくれたのをきっかけに読んだものでした。おそらく自分が初めて最後まで読み通した本だったように記憶しています。

先日、宮崎駿の映画『君たちはどう生きるか』を子どもたちとともに見にいったのをきっかけに久々に本書を読みたくなり、子どもたちも読むのではと思い買って、結局いまのところ自分だけが読んだ、という状況です。

90年近く前に書かれた本なので、さすがに現在と価値観の違いを感じる部分はあるものの、人としてどうあるべきかという根本の部分は全然変わらないなと思い、心打たれるものがありました。近年再びブームが来て読まれるようになったのもよくわかる作品でした。

ぼくはこの本を読んだのをきっかけに、この本と深く関係する山本有三の本をいくつか読み、その中の一つが『心に太陽を持て』という短編集でした。これもずっと心に残っている素敵な作品で、この本について少し前に、「こどもの本」という雑誌に以下のようなエッセイを書いたことがありました。こちらに転載しておきます。『君たちはどう生きるか』も『心に太陽を持て』も、ずっと読まれ続けるんだろうなあ。

——————

私は小学校時代、本を全く読まない子どもでした。そんな自分に、一緒に暮らしていた祖母がある日、「読んでみたら」と一冊の本を勧めてくれました。『君たちはどう生きるか』という本でした。その内容に心を動かされた私は、その作品と強いつながりがある本としてあとがきに紹介されていた一冊を、読んでみたいと思いました。それが、山本有三著『心に太陽を持て』でした。

この本は、子どものためのよい本を作りたいと願った著者が、今から八〇年以上も前に、世界の様々な逸話を集めてまとめたものです。何かを成し遂げた人の話もあれば、困難を抱えた人々にひたすら尽くした名もなき人の話もあります。どの話も、生きる上で大切なものは何かということを優しく真っ直ぐに伝えてくれます。努力すること、思いやりを持つこと、希望を捨てないこと、公正、正直であること……。

三〇年以上ぶりに読み返してみると、驚くほど、「あ、この話」と思い出すものが多くありました。幼少期に読んだこれらの話が自分の心のどこかにずっと残り、今の自分につながっているのかもしれないと感じました。

 今の時代にはもしかすると、メッセージがきれいすぎると感じる人もいるかもしれません。でも私は、子どものころに、理想に満ちた真っ直ぐな物語を読み、それを心の中に留めておくのは大切なことだと思っています。そのような物語は、誰にとっても、複雑な現実の中を生きていく上での心の支えや人生の指針になりうると思うからです。

 この本は、多くの人の心の中にそのような形で生き続けている気がします。久々に読み直してそう感じました。そして自分にとってはこの本こそが、タイトルにある「太陽」の一つだったのかもしれないと思い、ふと胸が熱くなりました。

(「こどもの本」2020年4月号)

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『吃音 伝えられないもどかしさ』の単行本をこちらからも販売します

『吃音 伝えられないもどかしさ』文庫版の「品切れ重版未定」について、このブログやSNSでお伝えしたところ(そのブログ記事はこちらです)、たくさんの方にご連絡をいただきました。気にかけてもらって嬉しかったです。ありがとうございました。いろいろなありがたいお声がけにも感謝です。とても励まされました。

そうした中、これからは単行本をもっと広く読んでもらうべく、単行本をほしいと思ってくださる方には、自分でも販売していくことにしました。

もしほしいという方がいらっしゃったら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の単行本を、僕から直接、少し安くでお送りします。税込&送料込で1500円で大丈夫です(参考まで、定価は税込1650円)。ご希望であれば喜んでサインもします(…と、自分で書くのは気恥ずかしいですが^^;)。 

ご希望の方がいらしたら、メール(ykon★wc4.so-net.ne.jp ★=@)や旧Twitter(@ykoncanberra)のDM、Instagram(kondo7888)のDMなどで、ご連絡ください。詳細をご連絡します。また、お送り先を伺わなければなりませんが、差し支えない宛先を教えていただければ幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします!

重松清さんによる書評もぜひ。

<頁をめくるごとに、つらかった記憶や悔しかった記憶、言葉がうまく出ないもどかしさに地団駄を踏んだ記憶がよみがえって、何度も泣いた。いい歳をして子どものように――子どもの頃の自分のために、涙をぽろぽろ流した。>

https://www.bookbang.jp/review/article/563177

とても残念なことながら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の文庫版が――

自分としてかなりショックなことながら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の文庫版が「品切れ重版未定」となってしまいました。事実上の絶版のような形です。

まだ3年も経っていないので、いまそんなことになるとは全く想像していなく、知った時には愕然としました。また、正直拙著の中でも、『吃音』に限ってはまさかそういうことはないだろうと思っていたのですが、皮肉なことに、自分の著書の中でこの本だけがそのような事態に陥ってしまいました。無念です。

さすがにもう少し粘ってほしかったし、他の方法はなかったものかとも思ってしまいますが、思うように売れてなかったということであり、商業出版であれば仕方なく、現実を受け入れるしかないのだろうとも思います。

数日間だいぶ沈みましたが、単行本の方はまだ生きています。今後は、これを生き延びさせるべく尽力しなければと、いまできることを考えています。

そんな状況のため、『吃音』の文庫版は、今後あらたに書店に補充されることはありません。

単行本も、決して安穏と構えていられる状態でもないようです。もし、本書にご興味を思ってくださる方がいたら、よろしければ単行本の購入を検討いただければ幸いです。

…と、なりふり構わない感じになって恐縮ですが、この本は、まだまだ果たすべき役割があるように思っています。興味ありそうな方などいらっしゃいましたら、紹介していただけたりしたら嬉しいです。

『吃音 伝えられないもどかしさ』(新潮社)、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

重松清さんによる本当にありがたい書評も、改めてこちらに。よろしければ…!

<頁をめくるごとに、つらかった記憶や悔しかった記憶、言葉がうまく出ないもどかしさに地団駄を踏んだ記憶がよみがえって、何度も泣いた。いい歳をして子どものように――子どもの頃の自分のために、涙をぽろぽろ流した。>

https://www.bookbang.jp/review/article/563177

<信州岩波講座 高校生編>「いまも自分に自信が持てない僕から、10代のみなさんへ」

12月7日、長野県須坂市の「信州岩波講座 高校生編」に呼んでいただき、同市の3校の高校生に向けてお話させていただきました。

演題は、最近の自分の気持ちそのままにしようと、

「いまも自分に自信が持てない僕から、10代のみなさんへ」

としました。

前半70分ほどはこのテーマで僕が話したのですが、後半は、代表の高校生12人が壇上に上がり、考えてきてくれた質問をその場でぶつけてくれました。

後半の質問パート、最初の問いが「すべらない話をしてほしい」というもので、あたふたして思い切りすべりましたが、困ってる友人へどう言葉をかけたらいいかや、進路のこと、旅のことなど、一人ひとりが自身の率直な問いを投げてくれました。また800人ほどがいる大きな会場の中からも手がたくさん上がり、いろんな質問をしてくれました。必ずしもうまく答えられなかったものの、それも含めて、楽しく貴重な時間となりました。

また、講演の前後に、控室の方に個人的に話に来てくれたりした子も複数いて、恋愛の相談なんかもあって、それぞれの思い悩んだりする姿に、遠い自分の高校時代を思い出しました。

前半の講演では、40代後半のおじさんが、わかったようなことを話すよりも、いまもなお10代のころとそんなに変わらず日々悩み、右往左往しているということを話した方が、聞いてもらえるのではないかと思い、そんな気持ちを前面に出しながら話しました。それでも、届いているか心もとなくもありましたが、何か一つでも心に残る言葉を伝えられていたら、と願っています。

信濃毎日新聞さんが、講演要旨と講座全体について、記事にしてくださいました(全文読むのは会員登録が必要ですが)。

講演要旨
https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2023121400146

講座全体(下写真はこの記事)
https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2023120700923

読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」の担当最終回『ナチスは「良いこと」もしたのか?』

読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」に先週、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』(小野寺拓也、田野大輔著(岩波ブックレット))を紹介しました。記事がオンラインでも読めるようになりました。

良い本かつ重要な本だと思うので、ご興味ありましたらぜひ本書を手に取って読んでみてください。

https://www.yomiuri.co.jp/.../columns/20231204-OYT8T50037/

自分は2021年春から3年近く、この欄のノンフィクション本を担当してきましたが、今回で最後となりました。

最近になってようやくオンラインでも読めるようになったところということもあり残念ですが、長くやらせていただき、ありがたい仕事でした。「ひらづみ!」という名の通り、売れてる本から毎回自分で1冊選び、概ね隔月で17回書きました(全部載せ切れてないですが、14回目までは こちらから、紙面の画像で読めます。 読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム )。

ところで、自分は子どものころは本に全く興味が持てず、ほとんど本を読まないまま10代を終えてしまいました。

大学時代までにちゃんと読んだ本は通算10冊あるかないかというレベル。読書感想文は、一度読んだ漱石の『こころ』で中高で何度も書き、高校の時は『火垂るの墓』をアニメを見るだけで本の感想文を仕上げました。

国語は苦手で、高校入試直前の模試では、国語だけ極端に成績が悪く、確か、625人中598番で偏差値34でした(直前にかなり衝撃的な順位だったのでよく覚えています)。第一志望の高校では本番の国語で、幸運にも、古文の文章が読んだことあるもので「うおおお、助かった!」と感激したことを覚えています(それで合格できたのかも)。

大学に合格した時、真っ先に思ったことの一つが、「これでもう本とか一切読まなくていいんだ、数学や物理だけをやっていこう」ということでした。

というくらい、活字を読むのが苦手かつ縁遠かったので、いまでも本を読むのがとても遅く、我ながら残念な限りです。

そんな状態から大学時代にライターを志すようになったのにはいろいろ紆余曲折があったのですが、いずれにしても、そんなだったので、この欄の担当メンバーの一人として、定期的に書評を書く機会をいただけたことは、自分にとってもとても貴重な経験でした。

さすがに文筆業を20年以上やってきたので、いまでは、読むのが遅くとももちろんそれなりに読みますし、本っていいなあとことあるごとに感じています。ただ、本を読むことが自分にとって自然な営みにになってきたのはここ数年の気がします。

書評を書く機会は今後も他紙誌で少なからずありそうなので、また見つけたら読んでいただければ嬉しいです。

『ナチスは「良いこと」もしたのか?』書評の記事誌面↓

『遊牧夫婦 はじまりの日々』<6 Uさんの死>

毎日、TBSラジオ<朗読・斎藤工 深夜特急 オン・ザ・ロード>を聞き、深夜特急の旅を一緒にしている気分になっています。もうトルコまで来てしまった。そして聞いてる途中で本当によく、自分自身が旅をしていたころのことを思い出します。

昨日は聞きながら、自分は旅をしてなかったらどんな人生を送っていたかを想像し、その一方で、旅をするきっかけをくれた大切な友人について思い出したりしていました。

ふと懐かしくなって、『遊牧夫婦』の中でその友人の死について書いた章を読み返し、そしたら、いろんな人に友人のことを知ってもらいたくなり、その章「6 Uさんの死」をアップすることにしました。彼の死から今年で20年。自分の年齢は当時の彼と離れていくばかりだけれど、その一方で、最近、死がいろんな意味で身近になってきたゆえに、彼との距離が近づいているような気もします。

本を読んで下さった方からもっとも言及されることの多かった章の一つでもあります。よかったら是非読んでみてください。

6 Uさんの死

「八月五日に兄が亡くなりました。とても静かな顔で、まるで、眠っているようでした」

高校時代の友人からそんなメールが届いたのは、まだバンバリーでの生活を始めて間もない二〇〇三年八月十一日のことだった。

「兄」といっても、「友人の兄」としてちょっと知っているという程度の関係ではない。「兄」もまた、ぼくと同じ高校で、二つ年上のバスケ部の先輩としてぼくは彼と知り合った。そしてその後、大学で同期になったことによって、ぼくは「兄」と仲のよい友人として付き合うようになった。その彼が、日本で命を絶ったというのだった。

何の前触れもない突然の知らせで、メールを読んでぼくはとても動揺した。ワンダーインのコンピュータスペースで、驚きのあまりしばらく呆然とした。

彼は、親しい友人という以上に、明らかに自分が大学時代にもっとも影響を受けた人の一人だった。なんといっても、ぼくが何年にもわたって海外で生活しようと思ったきっかけを与えてくれたのが、まぎれもなく彼だったのだ。

その彼が、この世を去った。そのことがすんなりとは納得できないまま、ぼくは自分が知っている彼のいろんな姿をコンピュータの前で思い出していた。先輩・後輩から始まった関係で、ずっとぼくは彼を「○○さん」と呼んでいたので、以下、Uさんとする。

Uさんは、高校時代からおしゃれで都会的で大人びた雰囲気を持った、とにかくかっこいい先輩だった。そのころは部活の一先輩後輩という程度の付き合いだったが、その時代から数年がたったある日、思わぬところでぼくは彼と再会することになった。

それは、Uさんが高校を卒業してから二年以上がたっていたときのことで、ぼくはその何カ月か前――ちょうど阪神・淡路大震災が起きた直後で、地下鉄サリン事件が起きる直前の二月――に大学受験に失敗し、浪人界へ暗く静かなデビューを果たしたばかりのころである。ぼくが通っていた駿台予備校がある東京・御茶ノ水の本屋「丸善」で、ばったりと出会ったのだ。

「おお、コンドー!」

ちょっといたずら好きそうで、でもいつもながらの凛々しい笑顔と軽快な口調の彼に、ぼくは呼び止められた。黒く焼けた肌を、いますぐにでもインドに行ってしまいそうなシンプルな衣服に包んだUさんがそこにいた。彼がすでに、ある私立大学に入学していたことを知っていたぼくは、こんな浪人たちの巣窟で参考書を片手に持った彼と会うことが意外だった。あれ、どうして……? と聞くと、

「おれ、大学やめたんだよ。カンボジアに行ってアンコールワットを見てさ、すげえ衝撃を受けて、どうしても建築をやりたくなって。帰国してからすぐに大学やめてさ、いまは建築学科に入り直そうと思って、もう一度予備校に通い出したんだ」

そう言って彼は、どんよりとした浪人時代を過ごしていた自分とは全く異なる明るいエネルギーをみなぎらせながら、参考書を選んでいた。ぼくは当時、大学で物理学を真剣にやりたいと思っていたバリバリの理系男子で、旅をしたいと思ったことなど一度もなかった。だから、「カンボジアでアンコールワットを見て感動して大学をやめる」という流れ自体が、よく理解できずにいた。

しかし、とにかくかっこいい遊び人で夜の東京を駆け回っているような印象のUさんが、自分には未知の外国で本当にやりたいことに気が付いて、大きな一歩を踏み出そうとしているらしいことは、新鮮な刺激となった。

それからたまに予備校で会ったりしながら、ともに一年の浪人生活を終えた春、ぼくらは同じ大学に入学することになった。Uさんは、受験当日に会場で会ったときは、「おれは記念受験だよ」などと笑っていたが、ふたを開けてみればしっかりと合格を手にしていた。ぼくが本格的に彼とつるみ出したのは、それからのことである。

類は友を呼ぶのか、浪人は浪人を呼び、大学時代のぼくの友だちには一浪した同い年の人間が多かった。その中に、年齢的にはぼくらの二つ上をいくUさんもいた。

彼はただ年上であるという以上に、カリスマ的なかっこよさと陽気なキャラ、そして、豊富な遊びと旅の体験に裏打ちされた確固たる豪快さと幅の広さがあった。都会らしいスマートさを漂わせつつも、アジア、アフリカ、南米などを数カ月から半年の単位で旅し続けている経験をもとに、とにかく旅が面白くすばらしいものであることを、色白でもやしっ子なぼくらに全身で教えてくれた。

エチオピアからだったか、ぼくらに手紙をくれ、彼の興奮を短く伝えてくれたこともあった。また、外国にいても「ホットメール」を使えばメールを送受信できるんだよ、と教えてくれて、当時まだ、大学に行かないとメールが出せず、家で手書きのファックスを夜な夜なオーストラリアに送ったりしていた自分は、へえ、そうなのか、すごいなあ、とびっくりしたことを覚えている。

またUさんは、大学の授業にも手馴れたメリハリをよく効かせた。単位を落としそうな科目については、「試験が悪かったら、あとは政治力だよ。×○先生には菓子折りだ、がはははー」などと言って、オトナのやり方があることを見せてくれたりもするのであった。

一般教養の授業では、相対性理論だったか量子力学だったか、難しい物理学の授業を一緒に受講し、ぼくは自分が物理学を志す身なのにほとんど理解できないことをまずいなあと思っていると、Uさんは頭のよさそうな本を手に、なんとなくそれらしいことを言っている。よく聞くと、やはり彼もわかっていないのだが、それっぽい本を携えることによって、ちゃんと物理学をファッションへと昇華させる術を心得ていて、Uさん、やっぱりさすがだなあ、と笑わせてくれたりするのである。

そして一九九七年十二月、すなわち大学二年の冬、ぼくが「ストーカー」時代を成功裡に終えて、今度は楽しく前向きな旅行のためにその年最後のオーストラリアへと向かうときには、Uさんが他の友人とともに、車でぼくを成田空港まで送ってくれた。

車内にはジミヘンの曲が流れ、軽快な走りでレインボーブリッジを渡って空港に向かった。ぼくも、その数カ月前の悲愴感溢れる旅立ちとは違い、今度ばかりは楽しいオーストラリア滞在になりそうで気持ちはとても軽かった。

空港が近づいてくるとUさんは、助手席に座るぼくに言った。

「パスポート、出しとけよ」

するとその直後、空港のパーキングの入り口で係員がUさんに、「免許証を――」と言うか言わぬかのところで、Uさんはすかさずぼくのパスポートを差し出した。すると係員は、パスポートを見て、「はい、いいですよ」と通してくれた。通り過ぎると、Uさんがニヤリと笑った。

「おれ今日、免許証忘れちゃってよ。ここ、ヤバイなって思ってたんだけど、お前らに言うときっと動揺すると思って、言わなかったんだよ」

さすがUさん、とぼくは思った。たしかに、Uさんが免許証を持っていなくて空港に入れないかもしれないことを知っていたら、この係員の前でぼくは若干不自然な挙動をとっていたかもしれなかった。けれどUさんが機転を利かせてくれたおかげでそうはならず、ぼくはすんなりとこの年四度目のオーストラリアへと飛ぶことができたのだった。

いつもそんな感じで、Uさんはぼくらにはない余裕と貫禄を見せてくれた。旅で培ったワイルドさと都会的で洗練された華やかさがいい具合に調和されて染みついている人で、とにかく別格の魅力があったのだ。そんなUさんの存在はぼくらの仲間内ではとても大きく、おそらく彼がいたからこそ、長期の旅をする友人が増えていった。

ぼくが学部卒業前にアジアを旅しようと思ったのも、やはりUさんの影響が大きかった。行き先がインドになったのも、Uさんに、「どこか一カ所っていうなら、インドかな。やっぱりインドは違うよ」と言われたことが決め手となった。そのインドでの体験によってぼくは旅の魅力に激しく惹かれ、この長期の旅について考えるようになったのだ。

「旅をして生き続けることができたら、めちゃくちゃ幸せなんだけどな。でも、そうはいかねえよなあ」

牧歌的な学生時代の終わりが近づき、自分の生き方を各自が真剣に考えなければならない時期がやってくると、Uさんはそんなことをよく言った。どうやってこの社会の中で生きていくべきなのか、何が自分にとって一番いい選択なのか。そう考えるとき、Uさんの中にはいつも旅のことがあったのだと思う。彼は本当に旅が好きだったのだ。

彼の言葉を聞きながら、そんなことができたらいいよなあ、とぼくも漠然とは思ったものの、実践しようとは考えてもいなかった。だがそのときすでに、Uさんと日々接する中で、旅がいかに魅力的なもので、かつ人をたくましく育てるものなのかを、肌で感じていたことは確かだった。Uさん自身の魅力が、そのままぼくらにとっては旅の魅力と映っていたともいえるのだ。

しかし、皮肉なことに、そんなUさんを少しずつ別の方向に変えていったのもまた旅だった。いつだったか、Uさんはたしか半年ほど南米に行ったが、帰ってくると明らかに様子が変わっていたのだ。

最初はただ、旅の疲れか何かで体調が悪いだけかと思っていたが、言動がはっきりとそれまでとは違ったものになっていることにぼくらは気づいた。どうしたのだろうと、何度か尋ねたことはあったけれど、ペルーあたりでなにやら凄まじい経験をしたと言うだけで、彼は決してそれ以上詳しく話そうとはしなかった。少なくともぼくにはそうだった。

ただ明らかだったのは、Uさんが激しく厭世的になっているらしいことであった。

もともとUさんは、いまの世の中に対して旺盛な批判精神を持っている人だった。それはおそらく、簡単にいえば、旅をして世界を見て回る中で培っていったものの一つなのだろう。

その思いは、たとえばコンビニは利用しないなど、物質的で記号化した現代社会を象徴するものを避けるような形で、彼の行動の随所に表れていた。ただ以前は、そんなUさんの独特なポリシーは、常にUさん一流の明るいポップさを伴っていて、ぼくたちも「おお、Uさん、アツいなあ、こだわるなあ」、などといって笑って見ていられる陽気さとコミカルさがあった。

しかし南米への旅のあとに様子が変化してからは、その一つひとつが普通ではないシリアスさとストイックさで実践されるようになり、そこまでやらなくても、とぼくらが思うぐらいのものになっていった。彼はそれまでとは全く違うレベルで、いまの社会に対して違和感を覚えているようだった。すべてが薄っぺらく見えるいまの社会をなんとか変えないといけない、自分はこんないい加減な生き方をするわけにはいかないんだと、何かに追われ、思いつめているようにぼくには見えた。

そんなUさんが心の底に抱えている思いは、極めて真っ当で、ぼくたちにも激しく訴えるものがあった。とはいっても、誰もがあらゆることになんらかの形で妥協しながら生きていかざるをえなかったし、Uさんほどその信念をストイックに貫き、行動に移すことはぼくたちにはできなかった。

だんだんと会話がかみ合わなくなった。そしてときに非常に緊迫した言葉を発するようにもなっていった末に、すっかり大学にも姿を見せなくなってしまったのだ。

最後にUさんと話したのは、二〇〇〇年にぼくが大学院に入ったのちフィリピンに行こうとしていたときのことだったと思う。フィリピンについて何か教えてくれようとしたのか、突然電話をくれたときだった。詳細は思い出せないが、そのとき久しぶりに話したUさんは、やはり少し張り詰めた様子でぼくに何かを伝えようとしてくれていた。

その同じ年のことだったはずだ。ついに彼は外界との一切の接触を絶ってしまった。ぼくらの誰にも、Uさんに何が起こったのかはわからないままだった。

生前、彼の近況を最後に聞いたのは、それから三年後の二〇〇三年三月、東京で友人たちを招待して行ったぼくとモトコの結婚パーティーの日のことである。パーティーに来てくれたUさんの弟に、「Uさんどうしてる?」と聞くと、

「じつは兄貴、こんちゃんのパーティーに参加するって言っててね、渋谷までは一緒に来たんだよ。でも、やっぱりやめるって、帰っちゃったんだ」

その次に聞いた報告が、その五カ月後の、冒頭のメールだったのだ。

ワンダーインでの掃除の仕事を終えたあとに、そのメールを見て呆然としながら、ぼくは自分が知る彼のいくつかの姿を断片的に思い出し、もうその彼がこの世にいないんだ、ということを落ち着かない思いで繰り返し考えた。

キッチンで作ったパスタを夕食に食べたあと、ぼくはUさんの弟にすぐ返事を書き始めた。書きながらいろんなことを思い出した。「旅をしながら生きていきたい」と言っていた彼が、旅によって変わり、この世を去った。その一方、もともと旅にあまり興味もなかった自分が、彼と出会ったことをきっかけに、いま旅を生きようとオーストラリアで暮らしている。それが不思議だった。ぼくは、Uさんの弟への返事にこう書いた。

《(ぼくらの友人たちの)誰もがUさんの大胆な発想や生き方をどこかで自分と比べながら、どうやって生きていこうかって考えていたんだと思う。今現在の状況を見れば、おれはその中でもとくに、自分の生き方を考える上でUさんのことがいつも頭にあるんだと思っています。だからUさんには、言葉ではいえないような感謝の気持ちがあります。Uさんと同期で大学に入学して、ともにあの時代をすごせたことをとても幸運に思ってるし、そしてそれは、これからも間違いなく自分にとっては、とてもとても大きな財産になるんだと思っています》

人は何よりも、人との出会いによって変わっていく。そんなことを、Uさんと出会ったことによってぼくは感じるようになった。

この日、ワンダーインの部屋の中で、考えていた。Uさんから得たものを自分の身体に染み込ませて、ぼくはこの先何年になるかわからない旅生活の中で、どのような日々を送り、どのように変わっていくのだろうかと。

どんな絵も思い浮かんではこなかった。そして考え直した。想像などできないからこそ、人は旅をするのだろうと。

きっとUさんも、同じだったのだろうと思う。

(6 Uさんの死 終わり)


『遊牧夫婦 はじまりの日々』プロローグ全文

読売夕刊「ひらづみ!」23年10月30日掲載『熟達論』(為末大著、新潮社)

10月30日の読売新聞夕刊書評欄「ひらづみ!」には、為末大さんの『熟達論』(新潮社)について書きました。人が熟達していく過程をこんなに説得力ある形で言語化できるなんてすごいです、為末さん。自分が文筆の道で経てきた過程を振り返りながら、そうだったのかと納得できたことも多々ありました。背中を押され、よしやろうと思わせてくれる一冊です。

読売夕刊「ひらづみ!」23年8月21日掲載『「山上徹也」とは何者だったのか』(鈴木エイト著、講談社+α新書)

少し間が空いてしまいましたが、8月に鈴木エイトさんの『「山上徹也」とは何者だったのか』(講談社+α新書)について読売夕刊「ひらづみ!」に書きました。統一教会問題を20年以上ひとり追ってきた著者の凄みが滲む一冊。それがいかに大変なことか、自分も書く立場として想像できる部分があり、感服です。鈴木エイトさんが長年の取材・報道に対しては複数の賞を受けているのもとても納得です。

「トラヴェル・ライティング」のスクーリング授業(京都芸大通信教育部)を受講して下さった方へ

10月末に、京都芸大通信教育部で、トラヴェル・ライティングに関する2日間のスクーリング授業を行いました。その時に皆さんが書いてくださった紀行文を読み、僭越ながら若干のコメントをいま書いているところです。短い旅時間と短い執筆時間によく書いてくださったなあ……、と思うものばかりで、楽しく拝読しています。

そうした中、駆け足だった授業時間中にお伝えできなかったなあと思うことがいろいろと思い浮かんできました。蛇足かもですが、見て下さる方がいればと思い、授業の際にお伝えしたかったけれどできなかったことのいくつかをここに書いておこうと考えました。と言いつつ、もしかしたら授業で話したことと重複する部分もあるかもですが、よかったら参考にしていただければ嬉しいです。

                    *

まず、紀行文を書く上で、自分はこのような手順でやってます、ということを話しましたが、それはあくまでも自分にとっての方法で、そうやった方がいい、ということでは全くありません、ということは授業の中でもお話ししたかと思います。

自分はもともと、すらすらと文章が書けるタイプではありません。それゆえに、なんらかの手順があった方が書きやすく、長年いろいろとやっていくうちになんとなく、このような手順で書いているなあという方法ができていきました。その方法や考え方を、皆さんの参考までにお伝えした感じです。人それぞれ、どのように書くのがよいか、というのは全く違うと思うので、僕が授業でお伝えした方法や考え方の中で「なるほど、そのようにしたら書きやすい」といったことがあれば、参考にしていただければと思いますし、「いや、自分は全然別の書き方の方が書きやすい」ということであれば、ご自身の方法を優先する方がよいと思います。

ただいずれにしても、どんな文章を書く上でも、自分なりの手順や方法、あるいは型のようなものを身に付けておくことは、文章を長く書き続けていく上で大切だと思っています。それがあると、ひとまず書き出せる。たたき台ができる。するとその先に進めます。

文章が自然に湧き出てくる人にはそのような型は必要ないかもしれないなと想像しつつも、自分の場合は、そういう型がそれなりに身に付いてきたゆえに、なんとか文章を書き続けられているように思います。

一方、逆説的かもですが、いま自分としては、なんとなくてできてきた型をどうやって崩していくかということが、重要になってきています。その型にはまらない文章を書きたく、しかしそれがなかなかできず、どうすればいいのだろうかと悩んだりしています。

でも、そのように考えられるのも、ひとまず自分なりの型があるからこそだとも思います。型があるから、それを壊す、という次の道ができてくるのだろうと。そういう意味も含めて、それぞれ、ご自分の書き方、型、というものを身に付けていってほしいなと思います。

また、その際に、この人のような文章を書きたい、という自分の理想形のような書き手を持っておくことはとても大きな助けになると思います。目指すところがあると、自分が何をすべきかが見えてくるはずだからです。自分にとっては学生時代に、沢木耕太郎さんの文章に出会い、沢木さんのような文章、ノンフィクションを書きたいと心から思えたことが、大きな指針を与えてくれました。

旅に出る前には沢木さんになんとか自分の文章を読んでもらおうと手紙を書き、厚かましくも、自宅のプリンターで印刷したどこに載るあてもない文章を出版社経由でお送りし(その結果どうなったか…といったあたりは『まだ見ぬあの地へ』に書きました)、長い旅に出てからも、沢木さんの文庫本数冊(『敗れざる者たち』『紙のライオン』『檀』『彼らの流儀』『人の砂漠』あたり)をバックパックに入れて、記事を書くたびに、沢木さんの文章の構成、文体、書き出し、を参考にし、真似していました。一人で文章を書いていく上で、ほとんどそれだけが自分にとっての指針でした。

ただ、型の話と重なりますが、自立した書き手として長くやっていくためには、好きな書き手を真似るということをどこかでやめ、自分自身の書き方を身に付ける必要があります。自分はどう書いていくのか、何を軸にして書いていくのか、といったことを模索していかなければなりません。僕は、沢木さんのような作品を書きたい、という当初の思いはいまなお全く実現できてはいないけれど、少なくとも、自分なりの方法、文体というのは、いつしかなんとなく自分の中にできていったような気がしています。その過程においてやはり、この人のような文章を書きたいと思える書き手がいたことが本当にありがたかったです。そうした経験から、好きな作家・書き手を持てることは、文章を書いていく上で大切なことであり、幸せなことだと僕は考えています。
                   
20年ほど文筆業をやってきた中で強く思うのは、書く上での「技術」を身に付けることはとても大事だということです。文章はこれといった技術がなくとも書くことはできるし、こう書くのが正しいという正解もありません。むしろ技術なんてない方が、思いが伝わる場合もあるかもしれません。でも確実に、書く上での技術はある。長く書き続けようと思えば、そのような、基盤となる技術がとても重要になってくることを実感してきました。

だから大学で授業をするのであれば、自分は、自分なりにその技術の部分を伝えないといけないと思ってきました。紀行文に関して言えば、授業中にお話した自分なりの手順・型のようなものがそれにあたります。その部分を授業でお伝えして、各人がそれぞれにあった形で自分の中に取り入れてもらって、自分自身の型・方法を構築していってほしいと思っています。それが大学で学ばれる上で最も大切なことだと考えています。

しかしその一方で、技術では人の心は動かせないとも痛感してきました。やはり、人の心を動かすのは、書き手の思いであり、言葉にどれだけ気持ちを込められるかだと思います。

それはその書き手の生き方、考え方、これまでに経てきた悲しみや喜びなど、その人自身の人生が問われます。取材して書くのであれば、書かれる側の気持ちや、読む人たちの思いにも想像力を働かせられるか。また、書くことに伴う責任などを意識できるか。文章を書くということは、そういったあらゆることが問われているように思います。

文章を書くことの魅力でもあり怖いところは、そうしたその人自身の人間性のようなものが、必ずどこかに滲み出ることです。それは文章に書かれた主張そのものではなく、一文一文のちょっとした表現や語尾などに表れるもののように思います。本一冊分くらいの分量の文章を書くと、避けがたくその人自身が表れるものだと感じます。

その点をどうすればいいかは、おそらく人から学ぶことはできないし、日々を生きていく中で自分自身で作り上げていくしかありません。そしてそれだからこそ、一人ひとり、異なる人が書いたものに価値があるのだと思います。文章を書くこと自体は決して好きとは言えない自分が、それでも書きたいものがあり、書き続けてこられたのはそれゆえのようにも感じます。

技術と思い。

その両面を身に付けていくことを、大学で学ばれる中で意識していってほしいなと思っています。

……と、そんなことを、授業の中で伝えられていたら、と、みなさんの紀行文を読みながら思ったのでした。とりわけ今回、そんな気持ちをこのような文章にしようと思ったのは、こないだのトラヴェル・ライティングが、京都芸大における最後の授業だったからのようにも思います。最後の授業にお付き合いくださって、どうもありがとうございました。

少しでも、皆さんの今後につながることをお伝えできていたらと願っています!

『デオナール アジア最大最古のごみ山』(ソーミャ・ロイ著、山田美明訳、柏書房)の書評を「週刊現代」に

10/16発売の「週刊現代」に『デオナール アジア最大最古のごみ山』(ソーミャ・ロイ著、山田美明訳、柏書房)の書評を書きました。

いまこの瞬間もこのような驚くべき環境で生きる人たちがいることを生々しく突きつけられました。そして彼らが置かれた状況は決してどこか遠い世界の出来事なのではなく、いまの自分の生活とも繋がっているということを思わざるを得なかった。

『責任 ラバウルの将軍 今村均』で知った、オーシャン島での日本軍による驚愕の島民200人殺害事件。

長らく積読だった『責任 ラバウルの将軍 今村均』を、先日思い出して読み出したら想像以上に面白い。その中に、自分は全く初耳の驚愕の事件についての記述があって驚かされました。太平洋のオーシャン島(現キリバスのバナバ島)で終戦直後に起きた日本軍による島民200人の殺害事件。

本書では、殺害を行った元日本兵が率直にその背景を語っています。

この島を日本が占領した時、島民2500人のうち屈強な男性200人だけを残してあとは他の島に移住させた。その200人には武器を与えて訓練し、良好な関係を結んできたのに、1945年8月、終戦の4,5日後に全員を銃殺したのだと。理由は、占領当時に島にいた宣教師など数人の白人を処刑したことが発覚するのを恐れたためというのです。

白人の処刑については200人の誰もが知っていたとのこと。だから、敗戦となって連合国軍が島にやって来た時にとても隠し通せないだろうから、全員殺してしまったのだと…。島民の殺害についてはその後ラバウルでの戦犯裁判で明らかになり、8人の日本兵が処刑されたけれど、白人殺害を隠すための集団殺害だったというのは裁判でも隠されたまま、資料にも一切残ってないようでした。

実際このオーシャン島の島民殺害事件についてはその後も全然知られていないのではないかと思って、調べたら、1年前の東京新聞にこんな記事がありました。
最後の指揮官命令は島民の虐殺だった…元日本兵が書き残した敗戦直後のオーシャン島で起きたこと
いまなお、やはり全然知られてない事件なのだなと改めて驚かされました。

角田房子著『責任 ラバウルの将軍 今村均』は1985年ごろに刊行されていて、当時、関係者の多くが存命で、こういう話を当事者に取材で直接聞いています。この島民殺害事件を語った元日本兵も当時まだ60代。生々しさがすごいです。また、今村均の人格者ぶりもとてもリアルに描かれてて説得力があります。ラバウルの戦犯裁判のいい加減さ、無実の罪で処刑された日本兵がかなりの数いたのだろうことも伝わってきます。

もっと広く知られるべき内容が多々あり(自分が知らないだけかもですが)、本としてもすごく面白いです。