「トラヴェル・ライティング」のスクーリング授業(京都芸大通信教育部)を受講して下さった方へ

10月末に、京都芸大通信教育部で、トラヴェル・ライティングに関する2日間のスクーリング授業を行いました。その時に皆さんが書いてくださった紀行文を読み、僭越ながら若干のコメントをいま書いているところです。短い旅時間と短い執筆時間によく書いてくださったなあ……、と思うものばかりで、楽しく拝読しています。

そうした中、駆け足だった授業時間中にお伝えできなかったなあと思うことがいろいろと思い浮かんできました。蛇足かもですが、見て下さる方がいればと思い、授業の際にお伝えしたかったけれどできなかったことのいくつかをここに書いておこうと考えました。と言いつつ、もしかしたら授業で話したことと重複する部分もあるかもですが、よかったら参考にしていただければ嬉しいです。

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まず、紀行文を書く上で、自分はこのような手順でやってます、ということを話しましたが、それはあくまでも自分にとっての方法で、そうやった方がいい、ということでは全くありません、ということは授業の中でもお話ししたかと思います。

自分はもともと、すらすらと文章が書けるタイプではありません。それゆえに、なんらかの手順があった方が書きやすく、長年いろいろとやっていくうちになんとなく、このような手順で書いているなあという方法ができていきました。その方法や考え方を、皆さんの参考までにお伝えした感じです。人それぞれ、どのように書くのがよいか、というのは全く違うと思うので、僕が授業でお伝えした方法や考え方の中で「なるほど、そのようにしたら書きやすい」といったことがあれば、参考にしていただければと思いますし、「いや、自分は全然別の書き方の方が書きやすい」ということであれば、ご自身の方法を優先する方がよいと思います。

ただいずれにしても、どんな文章を書く上でも、自分なりの手順や方法、あるいは型のようなものを身に付けておくことは、文章を長く書き続けていく上で大切だと思っています。それがあると、ひとまず書き出せる。たたき台ができる。するとその先に進めます。

文章が自然に湧き出てくる人にはそのような型は必要ないかもしれないなと想像しつつも、自分の場合は、そういう型がそれなりに身に付いてきたゆえに、なんとか文章を書き続けられているように思います。

一方、逆説的かもですが、いま自分としては、なんとなくてできてきた型をどうやって崩していくかということが、重要になってきています。その型にはまらない文章を書きたく、しかしそれがなかなかできず、どうすればいいのだろうかと悩んだりしています。

でも、そのように考えられるのも、ひとまず自分なりの型があるからこそだとも思います。型があるから、それを壊す、という次の道ができてくるのだろうと。そういう意味も含めて、それぞれ、ご自分の書き方、型、というものを身に付けていってほしいなと思います。

また、その際に、この人のような文章を書きたい、という自分の理想形のような書き手を持っておくことはとても大きな助けになると思います。目指すところがあると、自分が何をすべきかが見えてくるはずだからです。自分にとっては学生時代に、沢木耕太郎さんの文章に出会い、沢木さんのような文章、ノンフィクションを書きたいと心から思えたことが、大きな指針を与えてくれました。

旅に出る前には沢木さんになんとか自分の文章を読んでもらおうと手紙を書き、厚かましくも、自宅のプリンターで印刷したどこに載るあてもない文章を出版社経由でお送りし(その結果どうなったか…といったあたりは『まだ見ぬあの地へ』に書きました)、長い旅に出てからも、沢木さんの文庫本数冊(『敗れざる者たち』『紙のライオン』『檀』『彼らの流儀』『人の砂漠』あたり)をバックパックに入れて、記事を書くたびに、沢木さんの文章の構成、文体、書き出し、を参考にし、真似していました。一人で文章を書いていく上で、ほとんどそれだけが自分にとっての指針でした。

ただ、型の話と重なりますが、自立した書き手として長くやっていくためには、好きな書き手を真似るということをどこかでやめ、自分自身の書き方を身に付ける必要があります。自分はどう書いていくのか、何を軸にして書いていくのか、といったことを模索していかなければなりません。僕は、沢木さんのような作品を書きたい、という当初の思いはいまなお全く実現できてはいないけれど、少なくとも、自分なりの方法、文体というのは、いつしかなんとなく自分の中にできていったような気がしています。その過程においてやはり、この人のような文章を書きたいと思える書き手がいたことが本当にありがたかったです。そうした経験から、好きな作家・書き手を持てることは、文章を書いていく上で大切なことであり、幸せなことだと僕は考えています。
                   
20年ほど文筆業をやってきた中で強く思うのは、書く上での「技術」を身に付けることはとても大事だということです。文章はこれといった技術がなくとも書くことはできるし、こう書くのが正しいという正解もありません。むしろ技術なんてない方が、思いが伝わる場合もあるかもしれません。でも確実に、書く上での技術はある。長く書き続けようと思えば、そのような、基盤となる技術がとても重要になってくることを実感してきました。

だから大学で授業をするのであれば、自分は、自分なりにその技術の部分を伝えないといけないと思ってきました。紀行文に関して言えば、授業中にお話した自分なりの手順・型のようなものがそれにあたります。その部分を授業でお伝えして、各人がそれぞれにあった形で自分の中に取り入れてもらって、自分自身の型・方法を構築していってほしいと思っています。それが大学で学ばれる上で最も大切なことだと考えています。

しかしその一方で、技術では人の心は動かせないとも痛感してきました。やはり、人の心を動かすのは、書き手の思いであり、言葉にどれだけ気持ちを込められるかだと思います。

それはその書き手の生き方、考え方、これまでに経てきた悲しみや喜びなど、その人自身の人生が問われます。取材して書くのであれば、書かれる側の気持ちや、読む人たちの思いにも想像力を働かせられるか。また、書くことに伴う責任などを意識できるか。文章を書くということは、そういったあらゆることが問われているように思います。

文章を書くことの魅力でもあり怖いところは、そうしたその人自身の人間性のようなものが、必ずどこかに滲み出ることです。それは文章に書かれた主張そのものではなく、一文一文のちょっとした表現や語尾などに表れるもののように思います。本一冊分くらいの分量の文章を書くと、避けがたくその人自身が表れるものだと感じます。

その点をどうすればいいかは、おそらく人から学ぶことはできないし、日々を生きていく中で自分自身で作り上げていくしかありません。そしてそれだからこそ、一人ひとり、異なる人が書いたものに価値があるのだと思います。文章を書くこと自体は決して好きとは言えない自分が、それでも書きたいものがあり、書き続けてこられたのはそれゆえのようにも感じます。

技術と思い。

その両面を身に付けていくことを、大学で学ばれる中で意識していってほしいなと思っています。

……と、そんなことを、授業の中で伝えられていたら、と、みなさんの紀行文を読みながら思ったのでした。とりわけ今回、そんな気持ちをこのような文章にしようと思ったのは、こないだのトラヴェル・ライティングが、京都芸大における最後の授業だったからのようにも思います。最後の授業にお付き合いくださって、どうもありがとうございました。

少しでも、皆さんの今後につながることをお伝えできていたらと願っています!