『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』(岩波ジュニアスタートブックス)が重版に。

今年2月に刊行した

『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』(岩波ジュニアスタートブックス)

が重版になりました。

ネットで売れている気配はほとんど感じられず、書店でリアルで見かけたことも実は1回しかなく(笑、↓の写真。8月末の紀伊国屋書店 梅田本店さん。ありがとうございます)、でも担当編集者は、順調に売れているといつもおっしゃってくださっていて、いったいどこでどう売れているのだろう、、と謎だったのですが、重版になり、ようやく、手にとって下さってる方が少なからずいることを実感できました。読んで下さったみなさま、感謝です。

嬉しい感想は随時いただいており、それなりに読んでよかったと思っていただけるものにはなっているのではないかと思っています…。よかったら以下リンクより、「はじめに」と目次だけでも読んでいただけたらありがたいです。
「はじめに」と目次と「どうして男の人は子どもを産めないんですか?」

また、同世代に多い受験生の親御さん向けにアピールさせていただくと、中学受験の大手塾の模擬試験にも出題してもらったようです。ちなみに、同じく岩波書店刊の『旅に出よう 世界にはいろんな生き方があふれてる』(岩波ジュニア新書)は、刊行から13年経ちますが、今年も、Y-SAPIXの「リベラル読解論述研究」の中1用の指定書籍となっています(入試出題もこれまでに多数)。

https://www.y-sapix.com/mypage/request-for-purchase/

重版を機に、扱っていただける書店も増えたら嬉しいです(→書店員さん、よろしくお願いします…!)

とアピール満載で失礼しますが、本が売れてくれることが切実に重要で、必死です(笑)

引き続きよろしくお願いいたします。

「シミルボン」(23年10月1日に閉鎖)掲載のコラムを再掲:『新・冒険論』(角幡唯介著、インターナショナル新書)のレビュー的コラム

「シミルボン」(shimirubon.jp)という本紹介サイトが残念ながら10月1日をもって閉鎖に。そのため、そのサイトに書いた記事が見られなくなったため、こちらに転載することにしました。それが以下、『新・冒険論』(角幡唯介著、インターナショナル新書)のレビュー的コラムです。角幡さんは、冒険家・ノンフィクション作家として、自分の世代のトップランナー。彼の「脱システム」という概念には、ぼく自身とても影響を受けています。このコラムを読んで興味持ってもらえたら是非本を読んでみてください。


<「脱システム」が必要なのは、冒険するものだけではない>

 角幡唯介氏は、太陽の昇らない冬の北極圏や隔絶されたチベット奥地の峡谷など、世界各地の極限の環境の中で壮絶な冒険を行い、それを優れたノンフィクション作品として世に問うてきた作家、探検家である。その彼の深い経験と思索の末にたどりついた、冒険についての論考をまとめたのが本書『新・冒険論』である。

 冒険にとって何よりも重要な要素は「脱システム」である、というのが本書の主旨だ。すなわち、現代社会に出来上がった複雑で重層的なシステム――様々な科学技術、そしてそれによって形成された私たちの“常識”や“倫理”に覆われた世界――からいかに抜け出し、未知で混沌とした領域に飛び出すか、であると。 

 角幡氏は、記録に残る冒険のうち最大の偉業は、19世紀末のナンセンの北極海漂流横断だとする。シベリアから海流に乗れば北極点を経由してグリーンランドに行けるはずだとナンセンは考え、実際に船に乗って漂流した。そして驚くべきことに、彼とその相棒のヨハンセンは、途中で氷に囲まれてしまった船を降りて、氷上を歩いて北極点を目指したのだ。一度降りればもう二度と船には戻れないことを覚悟の上で、だ。その後、二人は奇跡的に生還するが、彼らのように、人間が作り上げたシステムの外に文字通り飛び出して、何が起きるかは全く予想できない環境に身を置いて未知の世界へと入っていくことこそが冒険の本質であり意義なのだと著者は言う。冒険者は、そうしてシステムの外に出ることで新たな世界を切り開く。さらに、システムの外からシステム内を見ることで、システム内にいては決して得られない独自の視点で社会を批評することができるのだと。

 しかし現代は、地理的に未知の空間などほとんどなくなってしまった上、地球全体が科学技術に覆いつくされている。その状況の中で、ナンセンのように完全に他と隔絶された領域に身を置くのは、現実的にも、また、現代人の意識としても不可能になったと言える。それどころか現代では、冒険の性質を根本から変えてしまうGPSや衛星電話の使用が当然のこととされ、危険な状況になれば救助を呼ぶことも厭わないのが普通となった。その結果、いまでは“冒険”と呼ばれる多くの行為が、管理されたシステムの中で行われるスポーツと化していると著者は説く。そういう時代ゆえに、冒険する人間が「脱システム」することを強く意識しなければ、冒険そのものが消滅してしまうということだろう。そして角幡氏自身はもちろん、脱システムすることを希求して、極夜(一日中太陽が昇らない)の北極圏を3ヵ月近く放浪するというかつて例を見ない冒険を行ったのである(その全貌は『極夜行』(文藝春秋)として刊行されている)。                                                           
 一方、角幡氏の言う、脱システムすることの意義は、冒険という分野を超えて、現代社会で生きる私たちの誰もに関係していることにも思える。私たち現代人の生は、社会の細部まで張り巡らされた巨大なシステムの中で、自分たちの意思とは関係なく進むものになりつつあるからだ。
 
 私は現在、大学で講義を持っているが、学生たちと接する中で強くそう感じるようになっている。学生たちは、立ち止まって自分の生き方についてじっくりと考えたいと思っても、インターンだ就活だと決められたイベントを次々に突き付けられる。そしてそのためにいまはこれをやりなさい、いまから手をうっておかないとやばいです、生き残れません、というような外からの声も大量に聞こえてくる。自然と、その流れに従うように促される。その流れはあまりにも強大なため、就活をして就職する、というのではない道を選びたいという気持ちがあっても、よほど強い意志がなければ、流れを抜け出してシステムに依存しない生き方をすることが難しくなっているように思うのだ。それはまさに、角幡氏が言う、冒険がスポーツ化していく過程と同じではないかと私は感じている。

 ちなみに私自身が学生だった20年前は、就職活動(当時は“就活”という言葉もまだそれほど一般的ではなかった)など自分が動かなければ大学が何を言ってくるわけでもなかった。そういう意味では、現在と比べると、人生がとても本人にゆだねられていたように思う。ライターとして長いノンフィクション的な文章を書きたいと思っていた私は、就職をせずにライター修行を兼ねた長旅に出るという選択をし、結果、5年半にわたって各国を旅しながら文章を書いて生きてきた。決して大胆ではない自分でもそういう選択ができたのは、就職への圧力がいまほど強くなかったゆえだろうとも、振り返ると感じるのだ。
 
 つまり当時は、生きたいように生きるという道を選ぶことが、意識の上ではいまよりも簡単だった。いまは、技術的には可能なことが当時に比べて圧倒的に多いゆえに、自分はこう生きるんだという明確な意志がある人にとってはおそらく可能性はより大きく広がっている。しかし、ちょっと立ち止まって考えたい人、どうしようかと悩んでいる人にとっては、辛い時代になっているようにも思う。自分はこうやって生きたいんだと考え、決断し、行動する隙や時間を与えてもらえず、ものすごい勢いの流れの中で、なんとか溺れないようについていくのにみな必死、という印象を受けるのだ。
 
 生きるとは、決してただシステムに従うことではない。
 
 本来生き方は無数にあるし、一人ひとり違っていて当然である。システムに従った方が楽ではあり、脱システムすることには、ナンセンの冒険のような厳しさがある。しかしそれでも、脱システムすることには代えがたい意義と魅力があることを角幡氏は教えてくれる。
 
 脱システムという概念は、冒険を志すもののみならず、現代を生きる誰にとっても重要性を増しているように思う。本書を、これから社会に出ようとする若い世代の人たちに特に薦めたい。

京都芸大でのスクーリングを今年度で終えるにあたって、来年以降の計画として考えていること

この土日は、京都芸術大学通信教育部のスクーリングの講義だった。6,7年くらいやってるインタビューの授業で、2日間の間に、学生同士で互いにインタビューしてもらい、それを文章にするところまでをやってもらう内容。

自分が考えた内容ながら、学生さんたちにとってはタイトな時間の中でやることが多くて大変だろうなと思うものの、終わって、満足して下さった方が多かった様子が伝わってきて、とても嬉しかった。

ここ数年は、インタビューに関して自分が伝えたいこと、伝えるべきこともしっかりと確立してきた感じがあって、その意味では、ある程度自信を持って話せるようになった気もする(いつも緊張しているのだけれど)。試験後、一人の方の提案で、残っていた人で集合写真を撮る展開に。ああ、よかったなと思った瞬間。ご提案感謝です。

やはり対面でインタラクティブにやる授業は充実感があるなあと思う。学生さんたちの充実感もオンラインとは全然違う感じがするし、通信の学生さん同士が互いにつながる貴重な機会でもある。だから京都芸大で来年度から対面のスクーリングがなくなり全部オンラインになるというのは自分としては何とも残念。全部オンラインで受けられるという選択肢があるのはいいことだと思うけれど、対面のスクーリングという選択肢もやはりあった方がよいのではないかといまなお強く思う。

対面がなくなる今年度で、自分の授業も終わり。あとは今月末のトラヴェル・ライティングを残すのみ。自分がやってきたスクーリングの授業は、インタビューのと、トラヴェル・ライティングの2つで、特にみなで実際に”小旅行”(というか近年は、時間が短くなって数時間の京都散策しかできないけれど)して、それを文章にする後者のスクーリングは、オンラインでは不可能なので終わるのも納得。

というわけで、通学の学生を教えてた時期から含めると10数年にわたった京都芸術大学(「京都造形芸術大学」の名称の方がいまもなじみがあるけれど)で教えるのは、今月でひとまずおしまいに。

いま思うと、3日間のスクーリングができた時代(ここ数年は、すべて土日の2日間になった)のトラヴェル・ライティングの授業は特に、自画自賛するようで恐縮ですが、参加者の多くがいつもすごく満足して下さった印象で、自分もいつもすごく充実感があった。

参加者は毎年10人程度で、1日目にみなで小旅行(→朝から一日、琵琶湖の竹生島や長浜に行って帰ってくるので、これは実際に”小旅行感”はあった)して、2日目、3日目で授業&紀行文を執筆してもらうという内容。

3日目はたいてい数時間、書いたものを互いにシェアしてみなで円になって意見を言い合い、ディスカッションした。その時間がいつも盛り上がり、有意義だったように思う。その時間を経て、さらに書き直してもらって後日提出してもらっていた 。

この形式の授業は毎年、3日間で受講者同士の交流も深まり、いい人間関係が生まれ、最後はみな名残惜しい様子で、終了していった印象。この授業を機に、学内の文芸サークルも誕生し、いまもこの授業のことを思い出して連絡を下さる方がいてとても嬉しいです。

そんなわけで、来年から自分で、この形式の講座を復活させられないかな、と模索しています。しかし、大学の枠なしでこれをやって、果たして人が来てくれるのかなと、少々不安。というか、だいぶ不安。小心な自分はそこで躊躇してしまう。が、これから具体的に考えていきたいところです。

緩和ケア医の岸本寛史さんとの共著『いたみを抱えた人の話を聞く』(創元社)、9月7日頃発売です。

9月7日に、共著の新刊が発売になります。『いたみを抱えた人の話を聞く』というタイトルで創元社から。共著者は緩和ケア医の岸本寛史さん(静岡県立総合病院 緩和医療科部長)です。

岸本先生はがんを専門とする医師であるとともに臨床心理を学び、多くの患者さんの話を聞き、見送ってこられた方です。とても素晴らしい先生で、お会いするたびにその思いを強め、考え方や生きる姿勢に共感を覚えました。この本は、そんな岸本先生が、タイトルのテーマについて語る言葉を、自分が聞き手となり、綴ったものです。

創元社の内貴麻美さんがこの本を企画・編集してくださり、装丁は納谷衣美さんが担当してくださいました。本の中身と外観がとてもよく合っていると感じます。

40代後半になり、自分自身いろんな意味で、いたみを抱える側でもあり、またいたみを抱える人の話を聞く機会も増えたように感じます。

自分はこのようなテーマを、これからもずっと書いていくのではないかとこの本を書きながら思いました。

必要とされる人にはきっと、読んでよかったと思ってるもらえる内容になっているのではないかと、願いも込めつつ、思ってます。

よろしくお願いいたします。

『終わりなき旅の終わり さらば、遊牧夫婦』(ミシマ社) プロローグ全文

『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』に続いて、シリーズ最終巻『終わりなき旅の終わり』のプロローグ全文も公開します(『遊牧夫婦』のプロローグ『中国でお尻を手術』のプロローグ)。2006年、上海に住んでいた時、中国東北部に小旅行をした際、妙な展開で北朝鮮へと国境を越えてしまった顛末についてです。久々に読み返して、自分たちのことながら、よくこんなことをしたものだと、ひやりとしました。

本書『終わりなき旅の終わり』では、ユーラシア大陸を東から西へ、次々に国境を越え、5年をこえた旅の終わりへと向かっていきます。そしてその中で思うようになりました。終わりがあるからこそ感動があるんだ。旅も人生も、と。プロローグだけでも読んでいただけたら嬉しいです。



0 プロローグ

 

 二〇〇六年十月四日午前十一時過ぎ、雲一つない青空の下、ぼくと妻のモトコは一本の橋を渡ろうとしていた。橋は、普通車が二台通れるほどの幅があり、長さは五〇〇メートルほどもありそうに見える。剥がれた欄干の赤いペンキが、橋が刻んできた時間の長さを物語る。その下には、橋の長さに見合った大きな川が穏やかに流れている。

ぼくはその橋の一端に立ち、緑の木々に包まれた対岸を望みながら、緊張感と高揚感に満たされていた。

 「あっちは北朝鮮なのか……」

 川は図們江(トゥーメンジャン)という。その両岸は中国と北朝鮮。ぼくらはいま、その橋の中国側に立ち、対岸の北朝鮮の大地に向かって歩き出そうとしていた。

 しかし、まさにその橋の上にいながらも、不思議でならなかった。いったいおれたちは、どうしてこんなところまで来ることができてしまったのだろうか。

 当時上海に住んでいたぼくらは、このとき短い日程の旅行で中国東北部を訪れていた。その際、近かった北朝鮮との国境付近にも足を延ばした。北朝鮮に行こうなどというつもりは微塵もなかったし、いきなり入国できるはずがないこともわかっていた。だから、この前日、その橋のそばにある国境の入口で車を降り、その前に立っていた門番のような職員にこう訊いたのは、ただの挨拶代りのようなものだった。

 「この国境から北朝鮮に渡ることはできるんですか?」

 しかしそのとき、全く予想もしなかった答えが返ってきたのだ。

 「可以(クゥーイー。できるよ)」

「外国人でも?」

「可以」

まさか、とぼくは思った。行けるはずがないだろう、と。しかし同時に、気持ちは一気に高揚した。もしちょっとでも北朝鮮を見ることができるのならば――。宿に帰ってモトコと一晩考えた。そして翌朝、思い切って行ってみることに決め、その場所に戻ったのだ。

「日本人ですが、ここから北朝鮮には行けますか?」

 「不可以(ブクゥーイー。行けないよ)」

前日とは別の職員が、当たり前のようにそう言った。
 やはりそうかとは思ったものの、はい、そうですかとはあきらめられない。

「昨日の職員はは行けると言われた。たった一時間、向こう側をちょっと見るだけでもかまわないから」

無理を承知でそう言ってみると、「ちょっと待て」と門番はトランシーバーでなかの人間に問い合わせた。そしてしばらくすると彼は言った。

「じゃあ、建物の中へ」

おお、ほんとに行けるのか……。通してもらえたことに驚きながら、少し興奮気味に建物の中に入っていった。そしてひと気のない建物の中をしばらく歩くと出国審査の場所に着いた。

さすがにここは厳しいだろうと思いつつ、門番に言ったのと同じことを言ってみる。すると、「じゃあ、一時間で帰ってくるんだな」と、笑ってパスポートに出国のスタンプを押してくれるではないか。橋のたもとに行くまでにさらにもう二人を説得する必要があったが、同様なゴリ押しの交渉がなぜか次々とうまくいき、気づくとぼくらは橋の目の前まで来ていたのだ。

 なんて適当な国境なんだろう。そう思った。どうして通してもらえたのか、理由はまったくわからない。しかしとにかく、あとは渡るだけという場所までぼくたちは来ることができてしまったのだ。

前日、遠くからこの橋を望んだとき、渡ることなど想像すらしなかった。あの橋の向こうにはどんな大地が広がっているのか、どんな人々が生きているのか。自分の目で確認することなど、一生ないと思っていた。しかしいま、少なくともその川の対岸にまではいけそうな状況になっていた。

 

「本当に渡っても大丈夫なのかな」

当然ながらひと気などない。風の音と自分たちの足音しか聞こえない静寂さを少し不気味に感じながら、モトコと二人、対岸に向かって歩き出した。北朝鮮側の大地の緑色と、太陽の光で薄められた空の青色は、一見、平和そのものの風景をつくり上げていた。しかしこの橋の向こうはけっしてそんな単純な場所ではないはずである。 

いきなり撃たれたりしないだろうか。そんな妄想も頭をよぎる。カメラを取り出して、さっと数枚写真を撮るとモトコが言った。

「写真撮るの、もうやめて!」

平然としていた彼女も、さすがに若干緊張しているようだった。

 しばらく行くと、橋の中間を示す赤いラインが現れた。

 「止歩」

 大きくそう書かれている。この先からは北朝鮮側になるのだろう。さらに歩くと、いよいよ橋も終わりに近づき、小さなゲートと、ポールに掲げられた北朝鮮の国旗が見えてくる。その隣の詰所には少年のような国境の番人が待っていた。自分が漠然と持っていた北朝鮮の兵士のイメージとは全然違う人のよさそうな少年だった。

 「ちょっとだけ観光しに来ました」

 中国語でぼくは言った。最初は意味がわからないようだったが、ゆっくりと何度か繰り返すと理解してくれた。そして彼は中国語でこう答えた。

 「不行(ブ・シン)」

 だめだ、と。電話で中に確認も取ってくれたが、やはりだめだという。しかし数メートル先に北朝鮮の土地を見てこのまま戻るわけにはいかない。パスポートに中国出国のスタンプがあることを示し、笑顔を振りまきながらこのままじゃ帰らないぞという意志を見せると、しばらく黙りこんだ後、突然少年は、何か意を決した顔をした。
「わかった、行きなよ」

なぜかはわからなかったが、このとき彼は自らの決断でぼくたちを通してくれたのだった。おお、ありがとう! と喜びつつも、不可解なまますべてがぼくらを北朝鮮へと導き入れているような展開に少し怖さも感じ始めた。

 そうして橋を渡り切った。ついに北朝鮮の大地へ、第一歩を踏み入れたのだ。

 

早足に奥の建物まで歩いていき、扉からなかに入った。入国審査の窓口はあるが、職員は誰もいない。入国するのを待っている中国人が数人いたので訊いてみると、昼休みだとのことだった。うろうろしていると、奥から中年の職員が登場した。

「隣の部屋で待ちなさい」

そう言われ、ソファのある応接間のような部屋に入るように促された。そこは十数畳ほどの広さの白壁のガランとした空間だったが、壁には金正日と金日成の二人が笑顔で並んで立つ大きな赤い肖像画が飾られ、こげ茶色の木の扉の上には、力強いスローガンらしき言葉が掲げてある。いよいよ北朝鮮にいるんだな。緊張感が高まった。

 「写真撮っても大丈夫かな?」

 職員が去ったあと、ビクビクしつつもさっとカメラを取り出して、肖像画や部屋の様子を座りながら撮影した。物音がするたびにびっくりした。そしてすぐにカメラをしまった。


それにしてもすべてがわからなくなってきた。なぜこんなところまで来ることができたのか。なぜ自分たちだけこんな部屋に通されたのか。いったいこれからどうなるのか。自ら無理やりここまで来てみたものの、徐々に落ち着かない気持ちになっていく。

「もう、帰ろうよ。これ以上はもう無理やろ」

モトコに言われて、そうだな、と思った。どう考えてもこの状態で正式に入国できるはずはない。来られるところまで来た気はする。十二時になると橋の中国側が一時的に閉められるとも橋を渡る前に聞いていた。それになんといっても、ぼくもモトコも、金親子が笑う静かなこの部屋の雰囲気にびびっていた。

 そのとき十一時四十五分。橋が閉まるまで十五分ある。ぼくらは金親子の部屋を出て建物を後にした。そして周囲に拡がる牧歌的な風景を眺めながら、中国に戻るべく橋の付け根まで戻っていった。そこにはやはり先の少年の番人が立っている。彼に礼を言って再び中国側に戻ろう。そう思った。

 しかし――。
 茶と緑の風景から目を離し、正面の橋を見ると、北朝鮮側のゲートが閉まっているではないか。あっ、と思った。中国側が閉まるのであればこちら側が閉まるのも予想できたはずだった。だが、なぜかそのことをぼくもモトコもまったく考えていなかった。
 それでも、少年がさっきのように笑顔で通してくれるはずだと、不安を打ち消して歩を進めると、彼がさっきとはまるで異なる真剣な形相でこう言うではないか。

 「不行(ブ・シン)」

 え? と思い、急いで彼に近づいた。

「入国できなかったんだ、中国に戻るから橋を渡らせてくれ」

彼は続けて首を振った。「不行、不行!」。だめだ、だめだ! と。そしてぼくの足が、彼が立つコンクリートの台の部分に載っているのを見ると、彼は一切の穏やかさを消してこう言ったのだ。

 「そこから降りろ。向こうに戻って待っていろ」

 柔和な雰囲気はなくなっていた。初めて、もう交渉は無理だと感じた。

 「どうしよう……」

 ただ昼休みで扉が閉まっているだけなのかもしれなかったが、まずい展開の予感もした。 どうなるんだろうと不安に思いながら、しかたなく、歩いて入国審査の建物へと戻っていった。少し待ったらあの少年兵はぼくらを通してくれるのだろうか。それとも、強引に橋を渡ってきたことが何か問題になっているのか。いま何か調べられているのかもしれない。あれこれ考えを巡らせて気持ちはますます落ち着かなくなった。

と、そんなとき。今度は、全く予想もしていない声が聞こえてきた。

 「あなたたち、日本人? なんでこんなところにいるの?!」

明らかにネイティブの日本語だった。驚いて声の主を見ると、それは一人の初老のおじさんだった。いったい誰だろう? 不思議に思いながら、早足で彼に近づき、ぼくは言った。

「こんにちは……。はい、日本人です」

訊くと彼は、仕事で北朝鮮に行くところなのだと言った。在日朝鮮人なのだと言う。それから、「で、あなたたちは?」とこちら以上に不思議そうな顔でぼくたちの素性を訊いてきた。ぼくが、自分たちは単なる旅行者であること、適当な交渉でなぜかここまで来れてしまったことを説明すると、心底驚いたようだった。

 「え、本当に? 招聘状も何もなしでここまで来れるなんて知らなかったよ。びっくりしたなあ。まさかこんなところに旅行者がいるなんて。それに、いまは日本もどこも大騒ぎなのは知ってる? 昨日北朝鮮が核実験をやるって宣言したんだよ」

え?! 今度はぼくらが驚く番だった。

 すでに書いた通り、この日は二〇〇六年十月四日だった。その前日、十月三日に北朝鮮が核実験を実施すると宣言したというのだ。僻地にいてろくにネットも見ていなかった。完全に初耳だった。まさかこのタイミングで、そんな事態になっていようとは思いもよらない。一気に緊張感が増幅した。こんな日に、わけのわからない入国未遂のようなことをしでかして、しかも国境の写真を撮っているのがばれたりしたら……。

 するとぼくの携帯が鳴った。メールだなと思って携帯を取り出そうとすると、おじさんはびっくりした顔でこっちを見た。

「いまのは携帯? まずいよ! 携帯は持ち込み禁止。中国側で預かってもらわないといけないんだよ。すぐに電源切って! カメラも隠しておいたほうがいいよ!」

そう言われてぼくはようやく気がついた。国境というものを軽く考えすぎていた……。あるいは、旅への意識があまりにも甘くなりすぎていたのかもしれない。ふと、自分たちが、よくも悪くもこの生活に慣れすぎてしまっているような気がしてきた。そして改めて時間の経過を意識した。もう三年以上になったのだ。

 

結婚直後に無職のままで、モトコと二人で日本を出たのは二〇〇三年六月のことだった。当時、ぼくは二十六歳、モトコは二十七歳。旅を暮らしにしようと心に決め、住むことと移動することを繰り返す日々を送り始めた。

オーストラリア西海岸バンバリーでイルカを見ながら半年を過ごしたあと、オンボロのバンでオーストラリア大陸を縦断し、バスや列車で東南アジアを縦断した。そして二〇〇四年の暮れに中国に着くと、雲南省の昆明で暮らしながら中国語を勉強した。その生活が一年ほどになった二〇〇六年の初頭からは上海に移り、今度は仕事中心の生活を開始した。モトコは就職活動をして食品関係の会社に就職した。一方ぼくは、自分にとって旅の大きな目的である、旅をしながらライターとして食べていけるようになることを、ようやく上海で実現できそうになっていた。

 しかし、そんな場当たり的な生活を夫婦二人で送りながらも、自分たちがそのような人生を生きていることが、つくづく不思議になることがあった。

 そもそも自分は、物理や宇宙の世界に憧れて理系に進んだ人間だ。大学に入るまでは、自分は必ず研究職的な仕事に就くだろうと考えていた。対象が宇宙になるにしろ、地球の気候変動になるにしろ、中学時代から慣れ親しんできた理科や数学を使う仕事が自分のフィールドになるだろうことは確信していた。実際大学院に至るまで、ぼくはずっと理系畑を歩いてきた。学部では宇宙や航空機について学び、大学院では北極の海氷の未来予測シミュレーションが研究テーマだったのだ。その一方で、文筆業などという仕事は、高校時代まではもっとも縁も興味もない分野のはずだった。

モトコもまた、いかにもこういう生活を好みそうなタイプではまったくない。旅が好きであったとはいえ、常識的で手堅い道をそうそう逸脱しそうもない性格であることはおそらく周囲も本人も認めるところだった。

そんな自分たちが、旅の中を生きることになり、いま、よくわからない展開で北朝鮮の入口に立って右往左往しているのだ。この三年で、モトコもぼくも、妙に大胆に無鉄砲になっていることが、このとききわめてよく実感できた。

そうはいっても、ぼくもモトコも根が小心な本質は変わらない。このときはとにかく、中国に戻ることばかりを考えていた。

 

そわそわしながらおじさんと話し、時間がたつのをひたすら待った。そうして二時間ほどが経過した。

 「そろそろ国境がまた開く時間のはずだよ。大丈夫だと思うけど、無事に中国側に戻れるといいね。何かわからないことあったら連絡くださいよ」

 そう言われ、ぼくらは礼を言って彼と別れた。たしかに橋の小さな門は開いている。少し軽くなった足取りで橋に向かって歩きながら、その周囲を見て、写真に撮れないこの景色をずっと記憶に焼きつけておかないと、と思った。

 川沿いにはきれいに整った畑がある。数百万人が餓死しているというようなニュースがまったくイメージできないほど青々とした野菜が育っているのが印象的だった。そのそばには子どもたちの姿が見えた。赤や青や白などきれいな服装をした彼らは、お互いにふざけあいながら元気に楽しそうに歩いている。
 結局、北朝鮮を見たと思えるのはこの風景だけだな、と話しながら、ぼくらは橋へと近づいた。そして、例の少年兵が今度はにこやかに通してくれるだろうと期待すると、立っていたのは別の人物だった。言葉が通じないなかでこの状況を説明するのはやっかいだなと思いながらも、彼に「北朝鮮に入国できなかったので、中国に戻ります」と中国語で言った。すると彼は、無情にも手を横に振った。

 「不行(ダメだ)」

 え? 中国に戻るんだよ、いいでしょう?
 しかし彼は態度を変えない。予想もしなかった展開に愕然としながら粘ったものの、まったく交渉の余地はなさそうだった。どうも出国のために必要な書類があるらしいのだ。

 「この状況でいったいどうすればいいってんだよ……」

意気消沈しながらまた出入国審査場へと戻っていったが、この複雑な状況を、言葉もあまり通じない相手にわかってもらえるとは思えなかった。そうだ、頼めるのは、あのおじさんしかいない。彼が入国してしまう前になんとか助けてもらわないと!
 そう思って二人で走って再びあの建物のなかへと駆け込んでいった。

 なかに戻ると、幸い、彼とその同行者の中国人らしき人物が書類を出したり荷物検査を受けたりしているところだった。お願いすると、同行者の男性が窓口で、朝鮮語でぼくらのことを説明し必要な書類をもらってくれた。教えてもらいながら必要事項を記入すると、あとは何カ所かにハンコとサインをもらうだけの状態になった。なんとか、中国帰還が見えてきた。北朝鮮へと入国するおじさんたちに礼を言って別れを告げる。そしてすぐに二階に上がりしばらく待つと、ようやくすべてのサインとハンコが手に入った。

 「やった……。もう早く出よう」

 誰かに呼び止められたりしないかとまだビクビクしていたが、今度こそ、本当に出国できるんだと確信できた。
 相変わらずの晴れ空の下で身体がぐっと軽くなる。逃げるように橋に向かうと、建物の前に止まっていたバスのなかの中国人に呼び止められた。

 「橋はバスで渡るんだ! 歩いちゃ渡れないよ」

 その言葉で、そもそも橋を歩いて渡ってきたところから何かがおかしかったらしいことに気づかされた。ボロボロのバスに乗りこんだ。橋で恐る恐る書類を渡すと先の番人が確認する。問題はなかった。

 バスは中国に向かって、バババババッと重く大きな音を立てながらゆっくりと橋を渡り始めた。たった数百メートルの橋の向こう側があまりにも遠く感じられたが、このときやっとその向こう側に戻れることが確実となった。

 「助かった……」

 国境というものが何なのか、このとき少しわかった気がした。自分たちの無知と無謀さに我ながらゾッとした。川の向こうの中国がとてつもなく遠く感じられたあの瞬間、国境の恐ろしさを肌で知った。しかし同時に、強く魅せられている自分もいた。二年前、東南アジアの国境を越えて北上を続けていたときの興奮を思い出す。そして思った。

 次々に国境を越える旅を、もう一度したい――。

新刊共著『いたみを抱えた人の話を聞く』(創元社、9月7日発売予定)の「はじめに」が公開されました

来月発売予定の岸本寛史さんとの共著新刊『いたみを抱えた人の話を聞く』の「はじめに」が創元社noteにて公開されました。
『いたみを抱えた人の話を聞く』ー「はじめに」

「はじめに」には、この本を岸本先生と書くことになった経緯、岸本先生がどんな医師か、そして何を伝えたい本なのかなどを書いています。

自分自身、岸本先生との対話を重ね、この本を書いていったことは少なからず自分の内面に影響を与えたように感じています。読者にとってもそのような本になればと願っています。必要としている人にどうか届いてほしい本です。

どうぞよろしくお願いします。

『中国でお尻を手術。遊牧夫婦、アジアを行く』(ミシマ社) プロローグ全文

先日、『遊牧夫婦 はじまりの日々』(角川文庫)のプロローグ全文をアップした勢いで、続編にあたる『中国でお尻を手術。遊牧夫婦、アジアを行く』(ミシマ社)のプロローグ全文もアップすることにしました。なかなか読まれる機会がなくなってしまったので、ひとまずプロローグだけでも読んでもらうことができたらと。

TBSラジオ《朗読・斎藤工 「深夜特急 オン・ザ・ロード」》が、今週は沢木耕太郎さんがいろいろと語る内容になっていて、その中で沢木さんが、”深夜特急”の旅は、人生の中で一度切りのものだった、と話されていました。あのような旅をまたしたいと思ってたけれど、結局その機会が来ることはなかったと。

自分も、長旅を終えたあと、また長い旅に出たいと思っていたけれど、結局、”遊牧夫婦”の旅は、人生で一度切りのものになるのだろうと最近確信するようになっています。だからこそ、もっと広く読まれたい。少しでも読んでもらえる可能性を広げたいです。よかったら第2巻にあたる『中国でお尻を手術。』も、プロローグだけでも読んでいただけたら…!そしていつか文庫化される日がきますように…。



0 プロローグ

「……起きや、起きや。おーい……」

 

けだるさを身体に感じながらゆっくりと眼を開けると、遠くには白い壁、その手前には複雑そうな医療機器、目の前には妻・モトコの顔があった。彼女はぼくの目を見ると、笑顔で言った。

「あ、起きた? 無事に終わったで……」

ぼくは「ああ」と、モトコの言葉で起きたような顔をした。しかしじつは、その少し前にすでに目を覚ましていた。目を覚ますとすぐに、自分が病院のベッドで寝ていることを思い出したが、身体がだるかったこともあり目は閉じたままでいたのだ。

そのときはまだ尻にカメラが入っていた。そしてカメラが尻の穴からスルッと抜け出る妙な感覚を感じながら、ああ、終わったんだ、と全身の力を抜いた。モトコの声を聞いたのはその直後のことだった。

「うわ、まぶしいな……」

そう思いながら目を開けると、彼女はちょっと興奮した様子で付け加えた。

「ポリープ、取れたで!」

身体はだるいままで力は入らなかったが、モトコのその言葉を聞いて、「そうか、よかった……」と、ますます力が抜けていった。

ぼくはこの日、人生初めての手術を受けた。大腸ポリープを内視鏡で切除するという簡単なものだったとはいえ、自分にとってはとても大きな出来事だった。

手術後しばらくは、まだ麻酔でウトウトしながら、尻に穴の開いた内視鏡用の紙パンツをはいたまま、ベッドの上で横向きになって寝そべっていた。そばでは若い女性看護師数人が、「あ、目を覚ましたのね、好、好(ハオ、ハオ)」とぼくの方を覗き込んで笑っている。近くには担当の医者もいるので、ぼくは思わず聞いてみる――良性でしたか?

すると丸顔で浅黒い肌の小柄な医者は、すぐに返事をしてくれた。

「対、対! 没問題(ドゥイ、ドゥイ! メイウェンティ)」

うん、良性だ。大丈夫だよ、と。

二〇〇五年十二月十三日。この町に住み出して一年近くが経とうというときのことだった。ぼくが初めての手術を受けたこの場所は、中国南西部、雲南省の昆明(クンミン、こんめい)だった。

大腸の危険信号といえる血便を確認したのはその三ヵ月ほど前の九月、昆明のぼくたちの部屋のトイレでのことだった。

それ以前にもちょっと怪しげな便はあったものの、唐辛子かな、といつも自分をごまかしながら過ごしていた。しかしこのときは便の半分ぐらいが赤く粘っこい塊で、「なんだこれ?!」と、思わず凝視してしまうほどだったのだ。

いくら雲南料理が辛いとはいえ、さすがにこんなに唐辛子は食ってないな、と唐辛子説は一瞬で消え去り、もはや血であることを認めざるをえなかった。

 赤茶色い自分の便のグロテスクな姿が頭から離れず、「あれは、やばそうだなあ……どうしよう、どうしよう」とウジウジしているぼくに、モトコが一喝。

「明日、病院行ってきいや」

その言葉に尻を叩かれるように、翌日ぼくは意を決して、行き慣れない地区までバスに乗り、昆明で一番先進的らしい「昆明市第一人民医院」へ行ったのだった。

 緊張しながら医者に会うと、「今日はどうしました?」と、中国語で会話が始まる。ここは昆明で唯一英語が通じる病院だという触れ込みだったので、ではここからは英語でお願いしようと思ったが、医者は明らかに中国語しか話せない。英語OK説はまったくのでたらめだったのかもしれない。それならばと、ぼくも昆明に来て以来勉強してきた中国語をフル稼働させてみたが、全然ダメだ。やれ大腸だ、やれ肛門だ、やれ痔だ血便だ、となると完全にお手上げだった。

よく自分の事情も説明できないまま、医者はいきなりぼくの尻に一〇センチぐらいの棒を差し込む態勢に入っている。びっくりして、ぼくは思わず尻の穴をすぼめながら「うわー!」と叫んでしまった。すると医者と看護師が声を合わせて、こういうのだ。

「不痛、不痛!(ブトン、ブトン!)」

痛くないよ、痛くないってば!

まったく情けない男ね、といった顔で看護師の女性に笑われる。観念して、極度にこわばった身体の緊張を解いて、棒を受け入れ、中を覗いてもらった。入れてもらうと何も嫌がるようなことではなかったことに気がつき、赤面しながら笑ってごまかした。そして、確かにおれは情けない男だなと恥じ入っていると、医者が言った。

「中に痔があるね。奥は見えないから、明日、大腸の内視鏡検査をしよう」

いや、そう言ったはずだ。その場では聞き取れなかったのだが、紙に漢字で書いてもらうと、何やらそうらしいということがわかったのだ。

内視鏡検査――そう、尻の穴から腸へカメラを入れるあの検査だろう。その言葉にぼくはすっかりビビッてしまった。ここからカメラを入れるって? それってみながいやがる痛いやつではないのだろうか? 

「内視鏡」というだけでも恐れおののいてしまうのに、中国語でのやり取りだったので詳細もわからない。カメラ入れるってことは深刻なのだろうか。やっぱり痛いのだろうか……。いろいろと怖い想像が膨らんでしまった。でも、もう覚悟を決めるしかなさそうだった。何よりも前日の血便がド迫力すぎたのだ。

家に帰って、ネットを駆使して内視鏡検査について調べてみると、痛い・痛くないの両説が無数に開陳されている。それらを読みまくって、いったいどっちなんだ、とぐったり疲れて眠りについた翌朝のこと。

八時から、もらった下剤を飲み始める。初めに飲んだ硫酸マグネシウムだったかが、この世のものとは思えない苦さだった。それでも、泣きそうになりながら二時間ほどかけて少しずつ飲んでいくと、確かに便は完全な透明になった。そして午後二時に病院へ。

諸手続きを済ませ、古い中学校の校舎のような建物の中を歩いて「胃腸鏡室」と書かれた内視鏡検査室に行くと、検査室の前の廊下は、がやがやと人でごった返している。いったいどーすりゃいいんだろう、とその人だかりを眺めていると、どうもここにいるみなが検査の順番を待っているようだった。

それぞれ自分の受けたい検査内容(胃か腸か。また、麻酔ありの「無痛」か、なしの「普通」か。「無痛」だと少し高い)を示すレシートのような紙切れを手に持っている(中国の病院は前払いなのだ)。もちろん列などはなく、ただ、前の人が終わって検査室のドアが開くと、一斉に「次はおれ!」「次は私よ!」と、押し合いながらそのレシートをわれ先にと医者に手渡そうとしているのだ。

これじゃまるで麺屋の注文と同じじゃないか……。ぼくは激しく面食らった。

 そうしてレシートを差し出す中の一人を、医者が「よし、じゃ、次はアンタね。ハイ、中に入って」と指名すると、その五分後ぐらいに検査開始という驚くべきシステムなのだった。しかも、検査中にドアが開いていることもあり、中の様子が廊下まで見えていたりする。カルテも何もあったものではない様子に、さすがに不安になった。

 だが、この弱肉強食の世界で検査ベッドに滑り込むためには、なりふり構ってはいられない。ぼくも麺屋の要領で、「おれ! おれ!」と必死に手を伸ばし自分のレシートをピラピラさせて医者の顔に近づける。すると何度目かでついに、「あいよ!」と選ばれ、順番が回ってきた。

恐る恐る検査室に入ると、中は案外近代的だった。だだっ広い部屋には、きれいな白いシーツの敷かれたベッドがあり、その横では賢そうな機器がピコピコと動いている。おっ、なんだ、中はいい感じじゃないか……、と少し気持ちが軽くなる。

すぐに検査用の下着に着替えて、指示に従ってベッドに横になった。「ニイハオー」と比較的陽気な医者が姿を見せ、不愛想な看護師が手早く準備をする。ぼくは保険に入っていたため自動的に「無痛」となっていて、麻酔の針を手の甲に入れられた。

液体が注入されるのを見ながら、どこまで起きていられるか試そうと思った。しかし、「まだまだ……」と思う間もなく、ぼくはすぐに心地よい眠りの中に落ちていった……。

起きたときには、すべてが終わっていた。まったく苦痛はなく、検査は無事に済んだようだった。さっきまでの不安な気持ちはすべて消え去り、にわかに気持ちが上向いた。すごいじゃないか、中国! とぼくは一気に中国医療に信頼を寄せ、安心して「どうでしたか?」と医者に聞くと、「没問題(大丈夫)」と笑顔をくれた。その顔を見て、ぼくはますます気が楽になった。

 麻酔が抜けきらないのでしばらくベッドに寝ている間に、検査結果の写真を渡された。明るいピンク色の自分の大腸の写真が四、五カット、一枚の紙に収まっている。診断結果は「慢性結腸炎」。医者は、薬を飲めば治るよ、と言った。

「ああ、なんでもなさそうでよかった……」と脱力して、その写真を眺めていると……、あれ、大腸の壁面から何か突起物が出ているではないか。「没問題」なはずなのに、これは素人目にも何かである気がした。でも、書いてある中国語の説明がわからない。

気になったので、意識がはっきりとしてさあ帰ろうとなったときに、「この突起物はなんですか」と看護師に写真を見せながら聞いてみた。すると彼女は言った。

「ああ、痔ですよ、痔」

思いっきり腸の奥の方にあるのに、である。漢字で紙に書いてもらったので、そう言ったことに間違いはない。おかしいなと思いつつも、検査が終わったことで気持ちを楽にして家に帰ったが、その夜やはり不安になった。

もしやと思い、以前にも相談をしていた胃腸内科・肛門外科の医者の親戚に、メールで検査結果の写真を送って意見を聞くと、すぐに返信が届いた。その中にこんな一文が書かれていた。

「これはポリープですね。将来的に大きくなり少ないながらもがん化の可能性がありそうなものなので、切除をすすめます」

それを読んで、ぼくの身体は一瞬縮み上がるようにこわばった。

がん化の可能性――。

がんなんて自分にはまだまったく無縁で、どこか遠くで起きている話でしかなかったはずだ。まるで、なるべく距離を置こうと思っていた恐ろしい人物が、急に隣の席にどかっと座ってきたような気分だった。いったいどういうことなんだ、おれにがん化の可能性なんて……。完全に寝耳に水な、とんでもないことが自分の中で起こっているんだと意識した。覚悟を決めないといけないような気さえしてきてしまった。

しかし、そんな風にぼくが思ったのは、ただその「がん化」という言葉だけが原因ではなかった。自分自身が身を置いていた状況とも関係があったことは間違いない。というのも、そのときぼくには、自分の生活について、いくつもの不安が渦巻いていたからだ。

旅の中を生き続けたいと、モトコとともに日本を発ってからすでに二年以上がたっていた。

長期の旅をしたいという気持ちが一致して二人で旅に出ることを決めたのちに、無職のままで結婚し、その三ヵ月後に日本を出た。そうしてふらりふらりと日々を送り、いつしか昆明にたどり着き、二人で気ままにに暮らしていた。

ただぼくには旅をする上で大きな目的があった。旅をしながらライターとして経験を積み、ルポルタージュなどを書くことで旅の資金を稼ぎ、持続可能な旅を続けていくこと。そうしていずれ、ルポライターとして自立できるようになることだ。数年の旅が、旅であると同時に、ルポライターとして独り立ちするための充実した修行期間となることを目指していた。一方モトコは、日本での会社員生活を離れ、それまでは考えられなかった長く自由な旅の日々を過ごしたいと思っていた。

旅に出る前、ぼくはライターとしての仕事の経験はほぼゼロに等しく、本当にそれでやっていけるのかどうか、まったくもって未知だった。だからモトコには、こんな約束、というか宣言をしていた。

「旅に出るのが三年ぐらいとして、その間はライターとしてやっていけるかがんばってみる。もしそれでメドが立たなければ、文筆業はあきらめて、日本に帰ったらちゃんと稼げる仕事をする。やるだけやってだめだったらきっとあきらめもつくと思う」

しかし日本を出て二年を過ぎていたこのとき、ライターとしての活動はうまくいっているとはいいがたかった。東南アジアを北上していたときは、それなりに各地で興味深い話題を見つけてルポルタージュを書いて雑誌に載せてもらうということができていたものの、昆明で暮らし始めて以来どうも全然うまくいかない。おそらくこの年は、年収二、三〇万円というぐらいの収入のなさだった。それでも物価の安い昆明に住んでいる分には全然生活はしていけるのだが、ライターとしてほとんどするべきことができていないことにぼくは日々焦っていた。

このとき二十九歳。来年は三十歳になるのだ。

モトコにもちょくちょく、「大丈夫なん?」と言われていた。ただ一方で、食えてるとはいえずとも、日本を出たときのほとんど何も実績がなかったときに比べれば、進展がないわけでもなかったから、もうまるでだめなのであきらめようという状態でもなかったのだ。そして何より、まだあきらめがつく、という気分ではまったくなかった。

自分の性格的な問題や、長い間自分の足かせのようになり続けてきた吃音(どもり)の問題もあって、自分にはこの仕事は向いてないのかな、と思うときも多々あった。でも、切り替えて他のことができるほど割り切りはよくなかったし、まだなんとかなるという気持ちもあった。何もそんなに焦る必要はないんじゃないか、オレのペースでやっていこう、という気持ちが生まれるときもまたあった。

「がん化の可能性」が自分のテリトリーに入ってきたのは、そんなときだったのだ。

その言葉を聞いて、突然時間が、カチッカチッと音を響かせながら時を刻み出したように感じた。人生が急に大きく先に進んでしまったように思えた。たかがポリープで情けない話なのだが、大げさにいえば、がん化の可能性が自分の問題となることによって、人生観が変わったというぐらいのインパクトがあったのだ。自分のもろさを痛切に感じ、ぼくは、右往左往しながら、今後のことを真剣に考えるようになった……。

 その後、病院でもらった薬によって血便はよくなったが、ポリープは取らなければとずっと気になっていた。そして一ヵ月ほどが過ぎた十月後半のある日、ぼくにダメ押しを食らわす驚くべきものが体内から出てきた。

これまた部屋のトイレで、大便を終えて流そうと思ってふと便器を見ると、便のなかに一〇センチほどの白いうどんのようなものが二本混じっていたのだ。一瞬なんだかわからなかったが、よく見るとそのうちの一本はヌルヌルと動いている。その姿を見て、ぼくは思わず身震いした。

「うわ、これ、回虫じゃねーか!」

 回虫の話は、昆明に来て以来ちょくちょく聞いていた。同年代の日本人の女友だちも山登りをしているときだったかに、屋外で便意をもよおして踏ん張ったら、なんと巨大なミミズのような回虫がひょっこりお尻の穴から飛び出てきたんだよと教えてくれた。その話を聞いたときは、「まったくありえないな、この人は……」と笑っていたのに、八ヵ月ほどの雲南生活によってついに自分の中にも回虫が巣食うようになっていたのだ。

回虫はポリープとは直接関係ないだろうけど、不安を増大させるには十分すぎる役割を果たした。いったいおれの身体はどうなってるんだと、落ち着かなくなり、もうポリープもさっさと切除してしまいたくなったのだ。気が変わらないうちにと、十一月に入ってすぐに再度病院に行った。

すると医者はこう言うのだ。

「いま内視鏡が壊れてるから二十日後ぐらいにもう一度来てくれ」

覚悟を決めて行くと力の抜けるこの返答。さすがだ。が、壊れていると言われればどうしようもないので、指示の通り、翌月に入ってからまた訪ねた。そして今度こそポリープ切除となったのだ。

 ポリープ切除は、「手術」というだけあって、前回の検査に比べるとさすがに多少気合が入っていた。検査室に行くと、すでにぼくのポリープ画像がモニターに映し出され、医者が見つめていた。それだけで安心してしまった。

 しかも今回は、簡単ながらも手術だということで、同意書のような書類にサインを求められる。「消化管出血、消化管に穴が開く、手術失敗、○×が起きても……」などとおどろおどろしいことが書かれた箇所があったが、医者がそこを指して 「ま、普通は大丈夫だよ」とあたかもたまには起こってそうな様子でぼくに言った。ぞっとしたが、選択肢はないのでサインをした。ぼくだけでなく、一緒についてきてくれたモトコもした。

「よし、いよいよだ」

サインを終えていよいよ自分の番という段階になったが、ぼくは検査用の紙のパンツを、下に自分のリアルパンツをはいたままで着てしまい、看護師に、「あははは、下着は脱ぐのよ」と笑われた。あ、そうでしたか、ははは、と恥ずかしくなりつつ笑って、もう一度脱いではき直していると、もたもたしていたせいか他の人の検査が先に始まってしまい、またしばらく待たされた。

 そして今度こそ、ぼくの番となった。モトコが手術を見たいと言うと、「ああ、いいよ」とあっさり承諾される。なぜか今回は麻酔はしない予定だったようで、あわてて、「してください」と頼むと、前回同様、手の甲から麻酔を入れられ、あれよあれよという間に意識が遠のいた。こんな少量の液体で、人間ってなんてやわなんだ……と思いながら、ぼくの頭のスイッチはオフになった……。 

 手術が始まった。

一部始終を見学したモトコによれば、担当の医者に加え、助手やら看護婦やら、なぜか外科の医者まで合計一〇人くらいで取り掛かった。看護師三、四人はそばに立ってモニターを見ながら、腕を組み合って何か耳打ちしたり、楽しそうに笑ったり。まるで学生の社会科見学ムードだったという。そのせいか、看護師による麻酔追加の作業もどうも危なげに見え、モトコは気が気ではなかった。一方、医者は腸に集中してカメラを挿入していく。だが、カメラは何度も腸の壁にぶつかり、おっとっとな展開に。

しかしなんとか二十分くらいで医者がポリープをつかみ、焼き切った。すると看護師たちから掛け声がかかった。

「好!(ハオ!)」

 ポリープは切除された。手術は三十分ほどで無事終了した。そして、ぼくはモトコの声で目を開けて、ポリープが切除されたことを知ったのだった――。

 その夜は一晩入院することになった。夕食はなんと、町の食堂と同じ油ギトギトの豪快中華。青椒肉絲(チンジャオロース)と卵スープに、その他三皿の炒め物とボウルに入ったご飯が並べられた。見舞いに来てくれた友だち二人とモトコとともに、「激しく腸に悪そうだけど……」と驚きつつもがっつり食べて、眠りについた。

 翌朝。

 起きたらいきなり悪寒がして、熱もありそうだった。それでもとにかく帰りたかったので「もう退院していいですか?」と聞きに行くと、「ちょっと待って」と言われ、待たされた。

しばらくすると、多少英語を話す医者が来て、軽く問診。しかしどうも言っていることがよくわからないし通じない。おかしいぞと思っていたら、彼は「腸(=intestine、インテスティン)」のことを、ずっと「インスティトュート(institute=研究機関、原理など)」と言っているではないか……。

仕方ないのでそのまま流し、ぼくは、風邪っぽいことを訴えた。すると、しばらく考えてから、彼はこう言った。

「君はもう一日入院しなければならない」

えっ? と思い、

「いや、お腹は痛くないし、腸もなんともないので、家に帰りたいのですが」

と主張すると、いきなり彼は、

「うん、帰ってもいいよ」

と、数秒で、耳を疑うようなコペルニクス的転回を見せた。「じゃあ、薬を持ってくるから待ってて」と、薬を四箱持ってきた。腸の薬は一箱のみで、三箱が風邪薬だった。

 家に帰ってから体調はみるみる悪化し、翌日、翌々日は三九度前後の熱が下がらずにうなされた。症状が完全な風邪なので、寒さ対策を怠ったせいだろうと自分に言い聞かせたが、こう絶妙のタイミングで熱が出るとついつい手術と関連づけてしまいたくなる。いやきっと、何かに感染したにちがいなかった。

 

いずれにしても、こうしてぼくの身体からはなんとかポリープが取り除かれた。まったく中国の病院はワイルドすぎたが、とりあえず「がん化の可能性」はリセットされたはずだった。

しかし、がんが身近になったことで、ぼくは自分の人生の持ち時間というものを急に意識することになった。ダラダラしていたら終わっちまうぞ、このままではダメなんじゃないか……。

ポリープがなくなっても、ぼくを取り囲むあらゆる不安定さは相変わらずだった。年齢は、さばを読まなければまもなく三十歳。年収は、少しさばを読んでも三〇万円。ライター業はぱっとしないし、そろそろモトコも「もう、あきらめや」と言ってくるかもしれない。何か打開策がなければ、すべてがこのまま中途半端に終わってしまいそうな気がした。

日本を出て、もう二年半。

最初の一年、オーストラリア、東ティモール、インドネシアにいたころは、ただただすべてが楽しかった。オーストラリアでイルカと暮らし、オンボロバンで豪州大陸を縦断した。東ティモールでは、誕生間もない国が自ら立ち上がっていこうとする熱気を吸い込み、さらにインドネシア南東部レンバタ島のラマレラでは、人間とイルカの海の上での真剣な戦いに心も身体も揺さぶられた。そのすべてを、毎日興奮しながら味わっていた。そして、シンガポール、マレーシア、ブルネイをへて、タイへ。次なる定住予定の地、中国を目指して、ぼくたちは東南アジアを北上していたのだ。

しかしそのうち気がつくと、旅が、ただの楽しい旅というだけではなくなり、自分たちにとってそれ以上の意味を持ち始める時期に入っていた。だんだんと近づいてくる中国という国が、ぼくらにとって、他の国とは比べられないほど巨大な存在感を持ち始めるようになっていった。

中国を意識し始めたのはいつぐらいからだったろう。明確にどこから、というわけではないものの、東南アジアもだいぶ北に上がり、タイ北部についたころからであったように思う。それはタイが、この旅で訪れた初めての仏教国だったこととも関係があるのかもしれない。そしてタイ北部のチェンマイでの思わぬ仏教体験以来、ぼくらの旅は、中国の向かって一気に動き出していった――。



『遊牧夫婦 はじまりの日々』(角川文庫) プロローグ全文

発売からだいぶ時間が経つ拙著『遊牧夫婦』シリーズですが、興味持ってくださる人が少しでも増えたら嬉しいなあ……といまもよく思っています。 特に最近、毎日TBSラジオ《朗読・斎藤工 「深夜特急 オン・ザ・ロード」》を聞いていて、紀行文の魅力を改めて感じていて、そんな思いが高まっています。沢木耕太郎さんの『深夜特急』と並べて考えるのは恐れ多いものの、ふと思い立ち、『遊牧夫婦 はじまりの日々』(角川文庫、2017年刊)のプロローグ全文をアップしてみることにしました(本には未掲載の写真も載せました)。もし興味持っていただけたら、本も手に取ってもらえたら嬉しいです…!

0 プロローグ

IF YOU ARE A PASSENGER DON’T BE A PROBLEM

――客は客らしく、静かにしていろ

DON’T BE A BOSS EVERYWHERE

――いつも自分がボスだとは思うな

二〇〇八年九月、ボツワナ。アフリカ大陸南部のこの国で、ぼくと妻のモトコはその貼り紙の真後ろの席に座りながら、北接するザンビアとの国境そばの町を目指していた。

この貼り紙が本気なのか冗談なのかはわからないが、無理やり押し込まれて二〇人ぐらいになった乗客はみな静かに座っている。

その中で、目立つ声で話しているのはバスの集金係の男ひとり。「おれがボスだ!」とアピールしたいのか、誰も聞いていないのにとにかくぶつぶつよくしゃべる。色は極めて黒いながらも、ダウンタウンの松ちゃんによく似ていた。その黒い松ちゃんが、外を見ながらふとぼくにこう言うのだ。

「ゾウが通るから、外を見てみろ」

地平線までまっすぐな道の左右には、黄土色と緑が混じり、乾燥して硬そうな茂みが延々と続いている。松ちゃんの示す通り、その前方に目をやると、たしかに茂みの中からゾウがゆっくりと道路へと歩き出てくる。着古した安いレザージャケットのような、深くて大きなしわが入った体をゆっくりと動かしながら、ゾウは、穴のたくさん開いたアスファルトの道路に足を踏み入れた。

しかしここでは、ゾウの存在は野良犬とも大差はない。ゾウが道を横切るのを待っている間も、乗客たちは「おお、なんと、あれはゾウだよ!」といった反応は一切見せない。松ちゃんに怒られないよう、ただぼんやりとその風景を眺めているだけである。ぼくたちも、その空気に飲まれたのか、野生のゾウが目の前にいるという興奮はすぐに冷め、ゾウが道を横切り終えるころには、早く出発したいな、とばかり考えているような始末であった。そんな自分に、「ほんとに疲れてしまったな」と感じてしまう。

二〇〇三年に日本を出てから、すでに五年を超えていた。

四年前、東南アジアを北上していたときは、バスの長旅をそれほど苦痛には感じなかった。出会うもの、起きることすべてに興奮していたからだ。しかしこの日、ザンビアとの国境に向かってボツワナの大地を駆け抜けるこのミニバスでは、たった三、四時間でかなり疲労してしまっていた。

乗ってから約七時間。終点の小さな町カサネでバスが止まった。やっと着いた、と体をほぐしながらバスを降りる。よいしょっとバックパックを担いで、さて宿探しか、と思うか思わないかのとき、モトコが叫んだ。

「バックパックがない!」

まさか、と思ったが、後部の荷物置き場のどこにもない。本当に影も形もなくなっていた。

ぼくもモトコも、それぞれ大小のバックパックをひとつずつ持って旅をしていた。小はデイパックほどのサイズで、大は、後ろから見たら腰から頭の下半分ぐらいまでがまるまる隠れるほどの大きさである。

この満員のミニバスには、二つの大きなバックパックを自分たちの座席の前に置いておくスペースはなく、モトコの大バックパックはミニバスの後ろに詰め込まれた。何年にわたって旅していても、バックパックが丸ごとなくなるという経験はなかったものの、荷物を預けるときはいつも少し気になった。知らぬ間になくなってしまうのではないだろうか、と。実際なくなって全装備を失った友人も何人かいる。だが、ぼくらの場合、いつもあった。

それがこの日、本当になくなっていたのだ。

荷物の積み降ろしも行う松ちゃんに聞いても、なぜないのかわからないと言う。モトコは凄んだ。

「荷物管理するのは、あんたの責任でしょう!」

でも、ない。バスの周りを何度見ても、やはりない。だが、必死に探すモトコに、一人の女性が声をかけた。

「あなたの荷物らしきものが、さっき国境で降ろされていたわよ」

それにちがいなかった。

このバスは、ボツワナ中部の都市フランシスタウンからまっすぐ北に進み、北隣のザンビアとの国境に寄ったのち、国境から七、八キロほどのカサネで終点、ということだった。この日ぼくらはカサネに泊まるつもりだったため、終点まで来ていたのだ。

国境で間違えて降ろされてそのまま置き去りになったのか、それとも誰かが意図的に降ろしてそのまま持っていったのか。いずれにしても、すぐに国境まで戻らなければならないことは確かだった。運転手と松ちゃんに言って、すべての乗客が降りてがらんとしたそのミニバスを、すぐ国境に向けて走らせてもらった。運転手も松ちゃんも協力的に動いてくれた。しかしモトコは、荷物に目を配っておくべき松ちゃんがなんだか他人事風であることに苛立ちを隠せず、松ちゃんには厳しく当たっていた。

おんぼろのミニバスはぼくら以外の客を降ろして軽くなり、ぶるるると軽快な音を立てて、バスターミナルから国境に向かって再び走り出した。

道路のそばには川が走り、そこにはカバやワニ、ゾウが数多く暮らしている。動物の姿は、道路を疾走するミニバスからは見ることはできない。それでも、アスファルトの脇から広がる赤土の大地に生える緑の木々の奥に巨大な動物たちがいると思うと、自分たちもこの動物界の一員なんだと自然に感じられるようになる。そんな貴重な環境の横で、しかし頭の中は、どうやってバックパックを見つけるか、そればかり考えていた。

国境に着き、バスを降りた。バックパックはどこにもなかった。松ちゃんと三人で、すぐに出国審査場に走り、松ちゃんが事情を説明すると、スタンプを押さずに通してもらえた。ナイス交渉力だ、松ちゃん! と思わせてくれる働きをした後、彼は言った。

「ザンビアとの国境は川なんだ。渡るためには船に乗らなければならない。荷物を盗ったやつも、その船をまだこっち側で待っている可能性がある。急ごう」

 走った。久々に走った。

松ちゃんはアフリカ育ちのわりにだらしがないというか、すぐに息を切らしている。彼がきつそうなので、ぼくがきついのも当然だ。でも、だからといってスピードは落とせず、そのまま猛ダッシュを続けると、数十秒で足にきた。肺にきた。

ボツワナ・ザンビア国境。写真は文章の出来事の2日後

船着場へつながる国境内の道には大きなトラックが縦に何台も並んでいる。その横を、肺からヒューヒュー妙な音を立て、地面に砂埃をあげながら走り抜けると、視界が開け、正面には幅の広い川が見えた。グレイに濁った水が、自然の美しさよりも生命力を感じさせる。この中にワニがいて、カバがいるのだ。向こう岸には鬱蒼とした緑の木々に包まれたザンビアの大地も見えた。

まもなく船がこちらの岸に着こうとしているときだった。まだ人はこちら側で待っている。女性は荷物を頭に乗せ、背中に子どもをおんぶして、両手には大きなビニール袋の荷物などを持って立っている。そのそばで男たちは手ぶらで座って、がはははーと談笑する。凄まじい男社会だ。が、そんな考察をしている暇はない。

ボツワナ・ザンビア国境。写真は文章の出来事の2日後

船がいよいよ岸に近づき、船に向かって歩き出す人もポツポツと出てきた。でもまだ誰も船に乗りこんではいない。間に合うかもしれない。そう願いつつ、モトコの大きなバックパックがどこかにないかと探しながら船に近づいた。

人が順番に乗り出した。みなに乗船されて船が出てしまえば、おしまいだ。もう数分しか時間がない。焦りながら、とりあえずぼくたちも船に乗り込んだ。

いくつもの美しく光る黒い肌の間を搔き分けるようにして船の中へと入ろうとしたときのことだった。ふと視線を手前に落とすと、目の前にモトコのバックパックが見えたのだ。小柄な黒人の男が、両手に大きな布団を抱え、背中にモトコのバックパックを背負いながら乗船しているところだった。

あっぱれなほど堂々と他人のものを背負っているその男の後ろ姿を見て、まず安堵感に満たされたが、すぐに怒りがこみ上げてきた。

「テメー、このヤロウ!」

と、後ろから、男が背負うモトコのバックパックをつかんで怒鳴った。しかし、振り向いた男は、気が弱く真面目そうで、ぼくらの登場など全く予期していなかったような困惑顔でこちらを向いた。そして彼は、少し前方で乗船していた婦人の方に顔を向けて、「この荷物はマダムのではないのですか?」と伺いを立てた。すると、その比較的裕福そうな女性が近づいてきた。手に背中に頭にと荷物を抱えている他の女性とは明らかに雰囲気が異なる優雅そうな彼女は、男に向かってこう言った。

「それは私のじゃないわよ。運べなんて言ってないわよ。あんた、間違えたのね」

ぼくらに対しては、使用人が間違えてしまったの、すみませんね、と謝った。

しかし男は、

「いや、でもこれはマダムのものかと思って……」

とでも言いたげな顔だ。「マダム、これはあなたが持っていけと言ったのではないですか」と強く反論したそうな様子でもあった。だがそうもできずに、不満げに口をつぐむしかないようだった。

なるほど、おそらくはこのマダムが……と頭の中で予測を立てたが、しかしもうそんなことはどうでもよくなっていた。ぼくはとにかくバックパックが間一髪のところで戻ってきたことにあまりにもほっとしていた。モトコも男とマダムを怒鳴りつけたが、結局、バックパックを取り返し、謝ってもらっただけで、ぼくらはすぐに船を降りなければならなかった。船は出発寸前だったのだ。

ぼくたちが降りるや否や、といったタイミングで、船はバババババーッと音を立てて、ゆっくりと岸から離れていった。マダムも男も、それに乗ってザンビア側へと川を渡った。ぼくらは安堵と怒りを内に秘め、バックパックを抱えつつ川から離れ、ボツワナの大地を踏みしめた。

「なんで、捕まえなかったんだ? あんなのはザンビア人がよく使う手だ。捕まえて警察に突き出すべきだったんだ」

ボツワナ人的立場から、松ちゃんは興奮しつつそう言った。ぼくも、自分がお人よしすぎたかもしれない、という気はした。男が出来心で持っていったのか。いや、自分には、あの男の顔に嘘はなかったように思えた。あの婦人こそが、男を使ってぼくらの荷物をうまくせしめようとしたんだろう、と想像した。

しかし、そう思う一方で、ぼくはそのとき全く別なことを考えていた。

もしバックパックが戻ってきていなかったら、もし国境に来るのが一分遅くて船が出てしまっていたら、どうなっていただろうか。おそらくそのときは間違いなく、ぼくらの旅は終わりになっていただろう。五年を超える遊牧民のような旅と定住の生活は、そのときに終わっていただろう。

数年前なら、バックパックがなくなったからといって帰ろうという話になったとは思えない。しかしこのときはすでに、旅を生活とするこの日々は、気持ち的にも体力的にも、明らかに終わりに向かっていた。何かきっかけさえあれば、いつでも終止符を打てるような状態だった。実際、この日から一カ月も経たないうちに、ぼくらの旅は本当に終わりを迎えることになったのだ。

 旅を始めたとき二十六、七歳だったのが、このとき二人とも三十二歳になっていた。結婚直後からのこの五年以上の旅の日々は、その後もずっと、自分の中に生々しい記憶として、感覚として、息づいている。

ぼくは時々振り返る。この旅は自分たちにとっていったいなんだったのだろうか、と。そしていくつものシーンや感情を思い出すと、そのエッセンスは、最初の一年の日々の中にすでに色濃く表れていたことに気づかされる。それだけ濃密で、様々な形で自分の中に生き続けている一年目の日々について、これから語っていこうと思う。

ぼくらは何を思い、旅を続けたのか。どんな景色を見ていたのか――。

(以上、プロローグ)

『遊牧夫婦』シリーズは、もともとミシマ社から全3巻で刊行されています(2010年~2013年刊)。『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』『終わりなき旅の終わり』の順で、5年間の話になっています。

ここにプロローグを掲載した角川文庫の『遊牧夫婦 はじまりの日々』(2017年刊)は、ミシマ社の『遊牧夫婦』の文庫版です。ただ、残念なことに残りの2巻は文庫化されるに至っていません。『遊牧夫婦 はじまりの日々』の続きを読みたい方は、ぜひミシマ社刊の『中国でお尻を手術。』『終わりなき旅の終わり』を読んでいただければ幸いです。

9月に新刊共著『いたみを抱えた人の話を聞く』(創元社)が発売になります。

9月に、共著の本が発売になります。創元社から『いたみを抱えた人の話を聞く』というタイトルで、共著者は緩和ケア医の岸本寛史さん(静岡県立総合病院 緩和医療課部長)です。

岸本先生はがんを専門とする医師であるとともに臨床心理を学び、多くの患者さんの話を聞き、見送ってこられた方です。本当に素晴らしい先生で、お会いするたびにその思いを強め、考え方や生きる姿勢に共感を覚えました。この本は、そんな岸本先生が、タイトルのテーマについて語る言葉を、自分が聞き手となり、綴ったものです。

一方この本においては、自分の聞き手としての役割は、いつも以上に大きなものになったような気がします。
というのは岸本先生は、<聞き手の役割は、ただ聞いているだけではない。語り手が語る言葉というのは、聞き手の存在によって、その相互作用によって生まれる>という考えを強く持ち、それを実践されてきた方だからです。

それゆえに、「どう聞くか」ということがテーマのこの本において、どう聞くかということは、この本の聞き手である自分自身に強く問われたことでもありました。

岸本先生はあらかじめその点を私に意識させてくださるご提案をされ、自分もそのことをよく意識した上で、岸本先生との複数回の対話に臨み、それを文章にしていきました。

その結果、自分もこの本の対話の作り手として少なからぬ意味を持ったように感じています。そして自分自身、岸本先生との対話を通じて、心を動かされ、大きく学ばされ、また、ある大切な気づきを得ることになりました。

岸本先生と編集者と自分自身の思いがしっかりと詰まった本になりました。必要とされる人にはきっと、読んでよかったと思える本になっているのではないかと思っています。

ブックデザインは納谷衣美さん。何度も本文を読んでくださって、自分たちが本文に込めた思いや言葉を本当に美しく本の形にしてくださいました。自分も手に取るのがとても楽しみです。

発売まで1カ月半ほどありますが、店頭に並びましたら是非手に取っていただけたら嬉しいです。

大学の講義中に何度か怒ってしまったことについて

今年は大学の講義で学生を注意する回数が増えている。
あまり学生に怒ると、うるさいおじさんだなと思われそうだし、かつ授業の雰囲気も悪くなる。また自分自身、できるだけ怒りたくない、という気持ちも強いので、なかなか悩ましい。しかし今年は、スルーしてはまずいだろう、という感じのことがたびたびあった。


授業中、自分が近くを通っても、全く気付く様子もなくスマホでゲームをしていたり、映画を見ていたり、みたいな学生が今年は特に多い気がした。
それで一度全体に注意した。

授業中、聞いていたけど眠くなって寝てしまったり、途中で集中力が切れてちょっと他のことをしてしまう、ということは誰でもあるし、それは問題ない。というか、そういうときは、自分の授業内容に魅力がなかったのだと思うし、それはこっちが反省しないといけない部分も大きいと思っている。そう伝えた。

しかし、最初から全く聞く気なく突っ伏して寝ていたり、バッグを机に載せたままずっとスマホでゲームをしているとかはさすがに認められない。そういう学生が今年は特に多いように感じた。さらに、自分が真横を通っても全く動じずにゲームをやり続けていたりする。それはメンタルが強いとかそういうことではなく、さすがに問題だと思う。ゲームなどをするにしても、せめてこちらにばれないようにうまくやる、というか、うまくやろうとする意志くらいは見せることが必要なのではないかと話した。隠そうとしてくれたら、基本的には見て見ぬふりをするから、とも言った。

授業だから聞きなさい、ということではない。真剣に話している相手に対して、それが最低限のリスペクトなのではないかと思う。話している側を完全に無視するような態度は、人と人の関係性として決してよくない。自分がそれをスルーしたら、学生は、それでもいいんだと思ってしまうのではないだろうか。金払ってるのはこっちなんだから、授業を聴こうが聴くまいがこっちの自由だろう、と思っているのかもしれないとも感じた。

決してそうではないはずだ。

授業に出るか出ないかは、学生の自由だと思う。出なくて学ぶべきことが学べない、単位がもらえない。それは残念なことではあるし、出てほしいとは思うけれど、でもそれはその人の選択だと思う。しかしもし授業に来るからには、この時間と空間をともに共有するからには、最低限、授業する人間へのリスペクトは必要だと思う。そして授業をする自分自身も、授業を受ける側へのリスペクトを持っていないといけないということもいつも思っている。

昨日は、イヤホンをして、完全に別な方向を向いて机の下かイスの上で何か作業をしている学生がいたので出て行ってもらった。その前は、10分くらい化粧し続けてる学生がいて、その場では、一人さらす感じにしてしまうのもどうかという気持ちが湧いて、やめてくれることを期待して注意しないままになってしまったけれど、翌週、全体に向かってそのことについて自分が思うことを話した。

こちらを完全に無視するような態度は受け入れられないし、受け入れるべきではないと思うからだ。

いま、学校で怒るということのハードルがものすごく上がっている気がする。学生は何をしても怒られたことがなくて、もしかすると、授業中に教員を無視して全く別のことをすることについて全然悪いと思ってないのかもしれない、とも感じた。

7,8年前に、授業開始とともにいつも突っ伏して寝る子がいて、それを繰り返されたために、さすがに何度目かに我慢ならなくなって出て行ってもらったことがある。するとその翌週から彼は人が変わったように真剣に聞いてくれるようになった。ただあとから、彼は学費を工面するために夜中までいつもバイトをしていて、どうしても授業中に寝てしまうのだ、ということを他の教員から聞いて、そうだったのか、と複雑な気持ちになった。

それから3年後くらいか、彼が卒業するときになって、わざわざ僕のところに謝りに来てくれた。「あの時はすみませんでした。そのまま謝ることができてませんでしたが、卒業する前には一度ちゃんと謝らないといけないと思っていて」と。真摯な気持ちが伝わってきた。

あの時、言ってよかったんだなと思った。それからは、怒ったり、注意したりすることは、やはり必要な時にはするべきなんだと思うようになった。もちろん理不尽な怒り方は言語道断だし、怒るからには、もし向こうに言い分があるのであれば、こちらはそれを聞かなければいけない。そのことも昨日は最後に伝えた。

読売夕刊「ひらづみ!」23年7月3日掲載『「戦前」の正体』(辻田真佐憲著、講談社現代新書)

今日3日の読売夕刊「ひらづみ!」欄に、この本、辻田真佐憲さんの『「戦前」の正体』の書評を書きました。明治維新後、近代化を進める理屈づけのために都合よく神話が使用・解釈され、その結果、日本全体が絡め取られていく過程に驚かされました。すでにかなり読まれている本ですが、ますます広く読まれてほしいと思いました。

本書を読んだ流れで、未読だった半藤一利『日本のいちばん長い日』をいま読んでいるのですが(こちらも超面白い)、神武天皇の物語がこのように45年8月15日へとつながるのかと思うと、実に考えさせられます。

『なんでそう着るの? 問い直しファッション考』(江弘毅著、亜紀書房)を読んだ

江弘毅さんの新刊『なんでそう着るの? 問い直しファッション考』(亜紀書房)。

読み出した時に書いたツイートが↓。

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「はじめに」の一行目から一気に江さんの世界に引きずり込まれ、テンションが上がる!厄介なおじさんにバーで捕まり、延々語られながら、しかしもっと聴かせてほしい!と思わせる文章には本当憧れる。続きが楽しみ。
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そして少し間が空いたけれど、昨夜読了。最初の印象のまま最後まで。

仕事の本を読む合間に、一話ずつ読んでいったけれど、だんだんと江さんの文体に中毒になり、進みが早くなっていった。めちゃくちゃ笑い、唸り、思い出し、考えた。

最初の方では、著者のファッションについての各種の論に対して、「うわ、この人の前では何を着ていったらいいんだろう」と思ったりする人もいるかもだけれど(若干自分も思ってしまった)、時折、文末に()で囲まれた一言を読んでいくと、江さん”B面”とも言おうか、自分でツッコミを入れるお茶目な姿が見えまくり、全然そんな心配はないことがわかっていく。(リアルな江さんを知る自分にとっては、()内の方が”A面”感がある)。ポロシャツの辺りだったか、いくつかの章ではめちゃくちゃ笑った。

著者は、表層や情報だけで服を見る人には厳しいが、自分の感覚を大切にして、悩みつつ服を着る人にはすこぶる優しく愛がある。その姿勢にしびれる。

この本の主旨を自分なりにまとめると、次のようになった。
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ダサいかダサくないか、カッコいいか悪いかは、着ているもの自体の問題ではなく、その人自身の服やカッコよさへの向き合い方である。

社会に承認された権威や巷の情報を頼って、安全そうな逃げ場の中にあるカッコよさのようなものを求める人間は猛烈にダサい。一方、何を着るか自ら悩み、権威や情報に頼らずに自分の感覚や好き嫌いで服を選び、カッコよさに常に伴う不確実性に身をゆだねる人間はカッコいい。そして、後者の道を歩み続けることによって自分の感性を育てあげていくことでしか、人はカッコよくはなれない。

ただ同時に、社会を無視して自分の好き嫌いだけを貫くのは違う。何を着るかを考えるうえで、場や環境を意識することも重要である。

その間、つまり、自分と社会との間で、自分は何を着るか、というところが服の面白さである。
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改めてしびれる。

読みながら思い出したのが自分自身の高校時代。

部活のない日は学校の帰りに下北、渋谷、原宿によって古着屋を回るのが何よりも楽しかった。ヴィンテージのジーンズやミリタリー系が好きで、あとはスウェットやTシャツ、ブーツ、スニーカーなども自然にディテールをあれこれ知るようになっていった。うわ、これかっけー、これすげー、などと言って、渋谷から原宿まで歩いたりして、しかし金がないので買えるのはわずかだが、というのが趣味のようになっていた。

ヴィンテージのジーンズは価格的に全く手が出ず、結局、軍モノのチノパン(これは結構価格的に買いやすかった)をはいてることが多かったなあとか、また、いまふと思い出したのはジージャンのこと。リーの101Jのだいぶコンディションが悪いのをなんとか出せる金額のものを見つけて買って大事に着て(破れまくって血痕もついていた)、あとはどう手に入れたのか覚えてないがマーベリックのを着ていた記憶が蘇る(しかしサイズが小さかった)。

あと思い出深いのはやはりMA-1。初期型、中期型とかをよく見て回ってやたらと知識がついてしまい、ほしくなるのは全部何十万とかして、ただ眺めることしかできない。そんな中、高2のときかなあ、いよいよ本物のMA-1、それなりの物を買おうと思って、バイト代を貯めに貯め、予算8万くらいで探し回った。裏地がオレンジ色になった70年代くらいのしか手が届かなかったけれど、たしか高円寺のヌードトランプで見つけたのが汚れ具合などがすごくカッコよくて、8万くらいで、少しサイズが大きかったけど、腰の辺りもちょっと伸びてたんだけど、これくらいは仕方ない、「一生着る!」と自分で自分を納得させて購入。

しかし、買ってみたら、やはりだんだんと、サイズが大きいのが気になってくる。買った時に思っていた以上にデカい。腰回りがカパカパして「これ、デカすぎだろ?」という感じがしてきて、これが似合うように太ろうか、とも考えたような考えてないような(たぶん20キロは太らないとジャストフィットしない感じ)。結局、そんなこんなで、「一生着る」はずが、大学に入って以降は、どうも着た覚えがない(笑)。いまはいったいどこにあるのか。

また、この後、レプリカか本物か微妙な感じのL2-Bを手に入れた(今度は懲りてジャストフィットのもの)。MA-1っぽいけど、違うやつ。何が違うのかは忘れてしまった。見た目は本物感あったけれど、本物にしては安すぎて、でもなんとか納得して着ていた。胸にかつての所有者のものらしき名前が刺繍されていて、その名前が「PAI.O」だった。これが本物感を出していたのだけれど、友人らにいつしか「これ、パイ・オツ?」と言われ出し、そのL2-B自体が「パイオツ」と命名されてネタにされるうちに、なんだか嫌になってきてこれも着なくなってしまった(笑)。これもどこにあるのやら。ああ。

……江さんの本を読みながら、30年前のそんな記憶が次々に蘇った。あのころは雑誌からかなり情報を仕入れつつ、でもやはり、自分の足で見て回り、金を使って失敗し、自分なりの好き嫌いを構築していったという感覚がある(というか、ネットないし、店に行かないと服なんて見られない)。そして、いまもその感覚が生きている。

読んでる途中に、服がほしくなり、アウトレットに行った時に、バナナ・リパブリックでコートと、アダム・エ・ロぺでTシャツを買った。テンション上がった。また、久々にポロシャツも欲しくなってる(自分はラコステではなく、ラルフローレンが多かったけれど)。

久々に、服を買うことが本当に幸せだったころの感覚を思い出した。
そしてなんとなく文体が江さんの影響を受けた(笑)。あのような文章は自分には決して書けないけれど。

大人気の小説を読んで感じた物足りなさの正体について

先日一つの小説を読み終えて思ったことを、記録まで。(6月30日にツイートした内容を書き直したものです)

それは大きな賞もとっている大評判の作品で、実際とても面白くてほとんど一気に読んでしまった。文章もストーリーも素晴らしい。ただ一方、何か物足りなさが残った。それは大人気の作品によく同じように感じることなので、なぜなのだろうかと考えていた。

自分なりに考えたところ、それは、描かれていない部分の堅牢さ、みたいなことにあるような気がした。登場人物たちの人生が、本に描かれていない部分にもしっかりと広がり、描かれていない部分でも生きていると信じられるかどうか。作者がその人物の人生を、
本の中に描く部分以外にどこまで想像し、作り上げられているか。本で読んでいるのはその人物の壮大な人生のほんの一部なのだと感じられるかどうか。行間や言葉の端々に、本来はだらだらと続いているはずのその人の人生の日々の時間経過、物語にならない部分の存在を感じられるかどうか、というか。その点において、自分には物足りなさが残ったのだと思った。

ヘミングウェイが確か、知らないから書かないのは物語をやせ細らせる、一方、知っていることを削り、書かないのは物語を強固にする、というようなことを言っていた、というのを沢木耕太郎が昔のエッセイに書いていた(『紙のライオン』に収録されているはず)。それがとても印象的なのだけど、最近その意味をとても強く実感している。

小説でもノンフィクションでも記事でも、文章として表面に見えている以外の部分をどこまで掘り下げ、練り、考えられているかがその文章の厚みや深みを決めているのではないかとよく感じる。

大人気の小説に対して、今回と同じような物足りなさを感じることが少なくないのは、もしかすると、書かれていない部分を深く掘り下げる、みたいなことが、次々にページをめくらせるストーリーの展開とトレードオフの関係になってたりするのかなとも思ったりする。または両立させるのが難しいのか。

自分が文章を書く上で、読む上で、何を大切だと感じるかが、最近ようやくある程度明確になってきた気がする。

東京新聞・中日新聞に『毒の水』の書評を書きました。

東京新聞・中日新聞に『毒の水 PFAS(ピーファス)汚染に立ち向かったある弁護士の20年』(ロバート・ビロット著、旦祐介訳、花伝社)の書評を書きました。

書評の全文こちらから読めます。

PFASの問題が注目を集めるいま、広く読まれるべき一冊です。緻密でドラマチックです。アン・ハサウェイ出演の『ダーク・ウォーターズ』原作。

吃音のある女性の、歌のオーディションの動画に心打たれて

さっきSNSで知ってすごく感動して、是非広く見てもらいたいと思いました。

吃音のある女性がオーディション番組で歌います。冒頭の彼女の話だけ、以下に訳しました。 …

アマンダです。…19歳です。お分かりのように、……私には、言語の障害が、あります。それによって私は、いろんなことを避け、逃げてきましたが、でも歌う時には吃らないことがわかりました……。私はこれから、自分で書いた歌を歌います。それは私の辛かった時のことです。もしその時に戻れて、過去を変えられるとしても変えません。それが今の私を作っているからです。 

…と言って、歌が始まります。詞も歌声も美しくて、彼女の思いがすごく伝わってきてとても心を打たれました(詞も訳したかったのですが、十分に訳せなそうで。。) 観客や審査員の反応もとても温かくて、心動かされ、優しい気持ちになりました。

是非見てもらえたら嬉しいです。

旅立ちの日から20年。

昨日(6月22日)で、『遊牧夫婦』の長い旅に出発してからちょうど20年だった。

旅立ちの時考えていたのは、数年間、旅をしようということ。26歳だった自分にとって数年というのは永遠のように思えたし、旅の終わりなど来ないように思っていた。また、できることなら、いつまでも終わりのない旅がしたいと思っていた。そのためにも旅をしながらライターとして稼げるようにならねばと。

しかし5年旅して、終わりがあるからこそ旅なんだと感じるようになった。何を見ても、ほとんど感動することがなくなってしまったからだ。そして思った。終わりがあるからこそ、人は感動するし、生きる原動力も湧くのだろう、と。旅も人生も。それが5年旅しての最大の気づきだったように思う。

そしていま改めて、そうだなと思う。

ところが、昨年あるコラムに自分がこんなことを書いていたのを思い出した。

ロームシアター京都のサイトへの寄稿「終わりがあるからこそ、と思えるように」より

そういえば去年、終わりがあるからこそ、と思えなくなっていたのだった。そのことを忘れていた。そしていままた、終わりがあるからこそ、と思えている自分に気づかされる。
それはもしかすると、最近、とても親しかったある人の死に向き合わないといけなかったからかもしれない。彼女の死のあとからなんとなくまた、終わりがあるからこそ、と思えているような気もする。去年、上のように書いていたことをいまはすっかり忘れていたのだ。

こうして移りゆく自分の気持ちもまた、記憶しておきたいと思う。

2003年6月23日、シドニーに降り立つ前の飛行機から。

2008年9月30日 旅の最後に撮った写真。マラウィ湖からモザンビークの大地を望む。

読売夕刊「ひらづみ!」23年5月29日掲載 『ウクライナ戦争』(小泉悠著、ちくま新書)

5月29日読売夕刊「ひらづみ!」に書いた、小泉悠さん『ウクライナ戦争』(ちくま新書)の書評です。著者の、軍事・ロシアの専門家としてのわかりやすく説得力のある分析に加え、研究者としての誠実さ、人としての優しさが感じられる一冊。おすすめです。

放送大学の面接授業「旅することと生きること」

週末は放送大学で旅に関する面接授業(スクーリング)だった。受講生は20代~70代と幅広く、伝えるべきメッセージをいつも悩む。これでいいのかと緊張しつつ話す。だからか若干ながら吃音が出る。言えそうな言葉を探し、自分の中でなんとか対処するけれど。

それゆえに、伝わったことが感じられると嬉しい。2日間計12時間ほどの授業のあとに、それぞれの方が、授業内容をどう受け取り、どのようにご自身の人生に重ねて聞いてくださったかを話して下さるときはありがたい。

それぞれの受講者にとって、何か意味のある時間になっていたら、と願っています。

初めてメディアに載った自分の文章を手に… (2001年8月18日朝日新聞「声」欄) 

3年前にフェイスブックにアップしたらしく通知が。初めてメディアに載った自分の文章(2001年8月18日 朝日新聞「声」欄)。この翌年に大学院を修了し、03年に結婚、旅立つのだけれど、その際、ほぼこの投稿記事で得た図書券3000円?だけを根拠に、「ライターしながら2人で旅して暮らします」と京都の両親の元へ結婚の了承を得に行ったのは我ながらワイルドだった。


職はなく、旅の予定は3,4年。そして結婚3カ月後に2人で日本を出ますなんて、さすがに一発殴られるかもしれないと覚悟していったら、逆に背中を押してくれるような両親で「行ってきなさい」と。改めてとてもありがたかった。自分もそう言える親でありたい。

読売夕刊「ひらづみ!」23年4月17日掲載 『マルクス 生を吞み込む資本主義』

4月17日読売夕刊「ひらづみ!」欄に掲載、白井聡さん『マルクス 生を呑み込む資本主義』の書評です。なぜいまマルクスが必要か、よくわかるおすすめの一冊です。難しすぎず、でも簡単すぎず、コンパクトな本ながら、しっかり『資本論』と向き合った気になれました。読後、世界の見え方が少し変わった気がします。
併せて斎藤幸平さん『ゼロからの『資本論』』も読み、さらに理解深まりました。